「地域づくり」のコンサルの仕事に就いてはや8年目。主に行政を通して住民の方と一緒に「地域づくり」という行為に携わるこの仕事、ここ数年で急速に嫌気がさしてきてしまった。

結局、この仕事は行政やコンサルの「思い通り」にある程度コトを進めてしまうことができるのが実情だったりする。むろん、行政やコンサルが「こんな地域であるべきだ」と考えていることが、イコール住民の望む地域の姿であることもあるが、実際にはここで考えられる「あるべきだ」という像は、ごくごく普遍的なものであったり、至極当然に生まれてくるアイデアでしかなかったりする。

また、これからの地域がどうあるべきかという長い目での論説ではなくて、意外と短視眼的なのも特徴で。意地悪くいえば、たとえば歌舞伎や神楽などの「芸能」であれば、その演目の意味や背景を考えたり知ることではなく、ただただいかに舞うか、いかに弾くかといった小手先の技術だけになってしまっているというか。

なんか違うと思うんだよねぇ、こういうの。初期砂浜美術館や赤岡の歌舞伎などのように、「思想」が先に生まれて「技」がそこから派生してきた地域づくりには、こういう禍々しさは当然ないし、きわめて長い目線でモノゴトが考えられているような気がする。だけど、行政又はコンサルが思いっきり絡んでいる「地域づくり」の現場には、まずワークショップはどうあるべきかといったこと、まずいかに参加者を広げるかといったこととかに囚われてしまうし、長くて3年のうちに成果を出すことが、ほぼ間違いなく求められる(役人には異動がありますから)。また、コンサル側はコンサル側で、企業として利益を追求しなければいけないので、たとえば計画の策定手法やワークショップの技法というのは定形化もしくはキット化を進めていかなければいけないし、いつまでもひとつの「現場」にこだわって仕事をし続けていると仕舞には怒られてしまいかねない。自分がそーだったように。
なんかそういうのがイヤになってしまったのだ。どちらかというと、おいらの場合行政と仕事をするということに。てゆか、行政>コンサル>住民という図式に嫌気がさしたというか。最近ではこれに行政色の強いNPOが入ってきてますますタチが悪いことになっていますけどね。。。

あと疑問なのが、こうした「地域づくりの現場」に参加する住民は、当然ながらごくごく一部なのだということ。大多数の住民は地域づくりという事に、悪い意味ではなく興味がない。一方、参加する人々は「一人でも多くの参加者」をつくろうと必死であったり、もしくはこうした場が設けられることは「チラシ」や「小さな新聞記事」でアナウンスされてるから、こない方が悪い・・・といったようなスタンスで『参加している者こそ正義』的な感じでコトを進めざるを得ない。
大抵の場合このアナウンスの手法にも問題があるんだろうけど、より根元的なところで自分たちの暮らす地域に「関心」を持って貰うことのできるような仕掛けをしておかなければ、ただ単に「こんな集まりがあるから参加しませんか」とか呼びかけたりしても反応できるはずがない。ましてやそれが単なるイベント的なものであればなおさらだ。

あと「若い人がこない」という嘆きをよく聞くんだけど、こういう場にこないでも「若い人」は結構自由きままにやってるんだよね、分かりやすいところでいえばお店やったりとかライブ仕掛けたりとか、こういう現場にくる人たちの知らないところで。そしてこういった店とかでやってるイベントの方がよっぽどたくさんの業種の人、世代の人がきていたりして(笑)
「地域づくり」って、たぶんこんな色々の人の思いが重なりあって自然発生的に育っていくもんだ・・・というか育っていかないといけない・・・と思うんですよね。一部の住民さんや、一部のコンサルさん(コンサルさんも住民だ)、そして行政さんの思惑とは全く違うところで。
なんかうまくまとまりませんが。逆にいえば、最大公約数を建前上とらざるを得ないコンサル行政・一部のNPO型のまちづくりにも限界があるということですかね。なんか最近思うのは、いたずらにネットワーク広げて最大公約数のまちづくりをやるよりは、ホントに意識を同じくする少ない人数でまちに「関心」を持ってもらえるような仕掛けをした方が、はるかに「まちのため」になるんでないかということだったりする。その方がよっぽど濃いし、よっぽど力がある。高知遺産とかはそんな感じだったから受けているような気がする。
いつかつづく