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ディープでライトな川の本をつくりたい

すっかりごぶさたの雑考。気がつけば5年も放置していたのね。
SNSばっか使うようになっていつしか頭の整理や体操をすっかりサボってしまうようになったので、こちらもボチボチ復活できたらば。
(2013-2015頃のwebmagazine四国大陸掲載記事もこちらに随時転載していきます)
—-

というわけで、夏。
夏といえば、川。

今年は梅雨明けが異常に遅かったこともあって川遊びのスタートが例年の7月はじめから1ヶ月近く遅くなり、この2週間ほどの間に集中的に遊んでいる。四万十川、仁淀川、安芸川、鏡川・・・2014年にうまれたアッという間に大きくなったこどもと一緒に、腕も顔も真っ黒になるまで遊んでいる。

で、今年の川で思うこと。

川の石をはぐればあらわれる、数多の水生昆虫や不思議なたまご。プリプリっとしたトビケラはさすがに覚えたけど、それ以外はどうしてもなかなか覚えられない。
川を覗けばすぐそこにみえる、無数の魚。キラキラしてるのがハヤ、少しヌメッとしてて黄色い斑点があるのがアユ、ひときわ美しいのがアマゴ、水底にいて比較的簡単に捕まえられるのがヨシノボリ・・・だと思うのだが、釣りだけは全く手を伸ばしていないエリアということもあって、、、いまひとつ自信が持てない。
そして、川の石。特徴的な砂岩や蛇紋岩、花崗岩はともかく、それ以外の石の種類・・・これもまた覚えられん。仁淀川や鏡川の河原には色とりどりの5−6種類の石が転がっていてとても面白いのだが、その由来を正確に覚えることがどーしてもできない。むかし地質の会社にいたのに。。。

ならば、そうだ、そういうときにこそ必要なのが図鑑だ! というわけで今年の川には「川の図鑑」みたいなものを持っていってみたのだけど、東京の本だから高知にはいない魚や虫も当然多く載っていて、正直使いにくい。そんな魚見たことも聞いたこともねえよ!っていうのが多すぎる。
そして、そもそもヨシノボリいっことっても種類が多すぎて色々載せられても同定できない・・・というか早々に同定する意欲を失ってしまう。てか、そこまで同定する必要もないじゃん、と思った瞬間に冷めていくというか。

となると、このような自分たち家族に必要なものは高知の川の図鑑であり、もっともっと実用的な素人(=同定力の弱い人)向けの図鑑だ。

水生昆虫はどれがどのトンボかなんていう細かい種類の話までは正直わからなくてもいいから、「どういう場所」に「どういう虫」がいるのか、それが将来何の虫になるのかをわかりやすく表現したものがほしい。

川の魚は多くの図鑑がただの標本写真で紹介されていて、泳いでいる時のイメージとの差がどうしても埋めにくい。となれば、標本的な写真よりも泳いでいる写真を使うことで「川での見え方」に近くなるようにしたものがほしい。アユのように特徴的な挙動を持つ魚なら、その挙動から魚の種類を把握できるようにイラストやQR動画でわかりやすく見せたい。

川の石は、仁淀川や四万十川、吉野川などの川ごとに違う石の分布と見分け方、それぞれの地質帯の話や地震、地形学との関係にまで踏み込めたら面白い。

あとは川の楽しみ方。川エビの捕まえ方とか釣りの仕方といった遊び方はもちろん、流域史や地形学、沈下橋の由来や工法、生活史や産業史・・・などなどにまで軽くでいいので踏み込めたら、子どもの頃から「地域」に対して明確な関心を持つことができるのではないだろうか。

必要なのはわかりやすい写真とテキスト、愛情のこもったイラストとデザイン。
イメージ的にはB5変形80P、定価1500円くらいの川へも持って行きやすい本。

今手がけている本が終わったらはじめようかな。

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さらばとでん

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あと1時間で、土佐電鉄がその110年の歴史に幕を下ろす。
地方の公共交通はどこも厳しいけど、
新会社にはなんとかがんばってほしいもんだ。

路線網の再設定や系統番号の設定、ですかの充実、接遇の改善、将来のスマホ対応のバスロケーションの導入など、ホームページを見るといろいろ変わりそう。

まあ冷静に考えれば半分くらいはそんなこと10年前にやっとけよ!、という話だけど、事ここまで至らなければ変わることにもならなかったんだろうな、とも。

現状電車には月に1-2回くらいしか乗ってないしバスなんて10年に1回くらいしか乗ってないけど、乗れば案外便利なもんだーといっつも思うので(そりゃ当たり前なんだけど)、どうやったら一人でも多くの人にとって「便利!」ってなるのか取り組んでいってほしいもんだ、と。

新会社の名前は「とさでん交通」と最近の鉄道会社に多い「軽め」の名前。
だけど、これからも引き続き「とでん」と呼べるのは、ありがたし。
「りょうまでんしゃ」とか言わされたらたまらんかった。

で、いろいろ土電のことについて書いてきたはずと思って過去のブログも見てみたけど、意外と書いてない!

バスと土電でちと小旅
https://takemura-design.com/blog/?p=399

ガンバ土電
https://takemura-design.com/blog/?p=663

ですかですか
https://takemura-design.com/blog/?p=499

安芸線のはんこ
http://takaramachi.tumblr.com/post/5245161229/3

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移住”ブーム”のモヤモヤ。

うーん。絶賛大炎上しているときぐらいしか拝読したことないんだけど、有名ブロガーの方が高知に移住されるそうな。
で、何人かの高知人が書いてたけど、なぜだかちょいとモヤモヤするんですわな。

 

高知の良さって

最近ずーっと思ってたこと。そもそも「高知に移住する」ってなんなんだろうと。

高知県は、ちょっと前まで「自分の県に自信がなさすぎ」で、移住政策も観光政策もうまくいっていなかった。それがここ数年はあの時代はウソだったんかと思うくらいイケイケ。逆になんか自信持ち過ぎっていうか、そこまで何を誇って売り出そうとしているんだ大丈夫かてなくらいな状況になっている。悪い意味ではなく。

この動きは震災以後の東京民の「精神疲労」にリンクしているような。震災以後、東京はもうダメだーということで東京からの移住者がずいぶんと増えてきた。関西や他の地方からの移住者はほとんどまわりでは見かけなくて、ほとんどが東京とその近郊。ウチになぜか移住相談にくる人も、ほぼ100%東京。まあ高知みたいな場所にとっちゃとてもよろしいことだしやっと高知の良さが分かられるようになってきたんだなあとホクホクするはするんだけど、一方でここらへんからなんかモヤモヤするものも出てきたわけで。

高知の何がいいんだろと。
いや、そもそも高知は超いいと自分も思ってるんだけど、どうして急にこうなったんだと。

黒潮町佐賀の漁家民泊。漁師さんが釣ってきた鰹を一緒にさばいて藁で焼く。
そこからは夜まで飲みながら海の話を楽しむ。

高知の良さってなにか。
まあ飯がうまい、人がいい、自然いっぱい、歴史もあって、、、そんなところが基本にはなるわけだけど、まあこれはどこの土地に行ったとしても同じこと。青森だろうが静岡だろうが鳥取だろうが熊本だろうが、まあ同じことだ。

じゃあどこが高知はよそと違うのか。
思うのは、どう転んでも僻地ゆえに雇用吸収力のある企業も少なく
→従って自営業者が多くなるという土地柄で
→それなりの競争力が問われることになるので
→たとえば美味しい小さな飲食店や品揃えのいいお店が人口の割に多い
という流れがある点が、どうにもポイントに思える。

自営業者が多いから、そうしたところの人脈から仕事を拾うことのできるデザインやイラスト、写真といった業種も田舎の割には頭数が多いように思えるし、いいお店が多いから(取り扱ってくれるお店があるので)クラフトやアートなどの作家業の人々も、やっぱり案外多いような気がする。
高知ほど工場や大企業に恵まれない土地も珍しいと思うけど、でっかい工場や大企業がないからこそみんながなんとなく食える、そんなところが案外よその地方では考えにくい「良いとこ」にはなっているような気がする。少なくとも現状では。
だから・・・自分も生きていられる。そしてそもそもの、やっぱり酒と飯がうまい。これ最高にして原則。

 

高知の新鮮さ

で、移住者やその希望者には、こうした高知の状況は新鮮に見える人には見えるんじゃないかと思うのだ。
「統計上」どん底の地方でありながら、なんというかどん底感が高知を見てもあんまり見えない。それぞれの人とのつながりや、それぞれの技術やネタできちんとそれなりにお金を作って、暑くなったら仕事ほっぽって川に遊びに行って、それで酒と美味しいご飯を日々食べて(→貯金できない)いる訳で。人が少ないから人と自然につながって、お互いにサービスしあうような仕事の枠組みができあがっている。

移住希望者は、基本心の底ではやっぱり「東京ってすげーよ」と思ってるはず。だけど、そのすげーってのが結局は統計や数字の大きさなどなどでしかないということに、高知に来るとなんとなく気づいちゃうんじゃないだろうか。その邂逅感、おいらはもう高知に慣れすぎてしまってわからなくなったけど、逆に東京で話題になるのがとどのつまり「数」に纏わる話だったりすることを考えると、田舎と対峙する東京の価値というのはもはやそこにしか無くなっているのかも知れないと思えるわけだ。まあ相手が悪かったのかも知れないけど。
数で高知と東京を比較したところで、当然なんにもならない。高知が数の大小で勝てるのは面積くらいなもんだ。東京の不戦勝だ。そんな話を田舎から来た人間にすんなっつーの。

5月17-18日に開催されたvillage。 高知県内外のものづくりや飲食店120店が並び、3万人近い人手を記録。 行政やNPO、補助金とは無関係の、個人事業者たちだけで勝手に開催。 自分も実行委員の一人として参加した。 http://village-kochi.com/

そして、たとえば「自分で食う」という、東京や大阪ではそこそこの度胸が必要なことが、高知では比較的容易く実現するような気がする。長い目で見て食い続けられるかどうかは別として、働くということの充足感がおそらく東京や大阪あたりよりもなんとなく素早く得られそうな感じがする。諸経費が全体的には低い分、やっぱり東京大阪よりははるかにはじめやすいし、つながりがあればそこから広がる速度はそれなりに速い(つまり、言い方を変えればつながりがないとかなりしんどい)。
問題は市場のボリュームが少ないということだけど、大金持ちを目指しているわけでもないから少なくとも現段階ではそれほどの問題にはなっていない。
そして、逆にいえば普通のサラリーマンになりたい人にはかなり厳しい土地柄かもっていうことだ。そもそも職がないわけで。

そんなこんなで、全部じゃないにしても、こんな感じの高知の変わったところが「高知家」プロモーションあたりから東京民にもバレはじめて、ここんとこ超部分的に受けはじめてるんかなと思う(自由民権の終焉以後の100年間にわたり「地味県」の大関格だった高知の歴史上、超部分的とはいえこんな状況自体が稀なことだw)。まあカツオが旨すぎるってのもあると思うけど。

 

人の勝手だけど、そうもいかないと思うのね。

だけども、ここでモヤモヤが出てくる。
ネイティブな自分は、当然ながら人生のおわりまでここで暮らして行こうと思っているわけで、いまさらこんな居心地いい場所からどっかに移って暮らそうという考えはもはや毛の一本も出てこない。特に独立して仕事をはじめてからは、もうよそへ移るという選択肢はなくなった。高知のために何ができるかってことを考えるだけだ。

だけど、移住者ってどうなんだろうなと当然思う。たぶん、結構高い割合でそこまでの気持ちはないだろう。いつかは東京に戻るかも知れないし、高知に飽きたらまた別のところでもいいじゃんてな感じのところも正直あるだろうなと。むろんそれはそれで1つの生き方だし人の勝手だ。
しかし、モヤモヤするのは、高知ってものがそれぞれのセルフプロデュース上で物語をつくる「ひとつのパーツ」扱いになるのだとすれば、それは長い目で見れば高知にとって不幸かも知れないとも思うところだ。

上で書いた「高知の良さ」は確かに人口吸引力にはなりはじめていると思うけど、それでは吸引された人々は「高知の風土や文化」にどこまで根付いた解答を出せるのか。そこにこだわりすぎる必要はないかも知れないけど、そこにある程度こだわらないと北関東のようなアイデンティティを喪失気味の曖昧空間になっちゃいそうな気もする。どこの地方でやってもよさげな解答(仕事)を出すのか、出さないのか。ただ「出す」ということにだけカタルシスを感じちゃったりして終わられるのだったら、やっぱりそれは迷惑だなーと思うのだ。

高知がそんなタイプの人々の「部品取り車」みたいになっていけばいくほど、後に残るものは何なのかよく分からないことになる。なんつか、国境のボーダレス化で移民が増えて国ってなんだってことになりはじめているEUとなんとなく被る。
ただ、これはそのまま高知民にも返ってくる言葉でもあるわけで。。。高知の風土や文化、つまりアイデンティティ的なところに、どれだけ応えているのか、応えていこうと考えているのか、っていう。おいらの生業であるデザイン業でも、梅原真さんや迫田司さんのような人々はそこにとことんこだわっている。まあそれでやりすぎ感のあるときもあるなと思うけど、自分らも含めたその下のモノコトを作ろうとする世代はどうなんだと、自問自答せざるをえない。

そしてもうひとつのモヤモヤは、東京では遊牧民的な生き方もある種ひとつの生き方かも知れないけど、それが農耕民族的な田舎に合うのかどうかってことだ。腰を据えてない相手を信用しようとしないのは、良くも悪くも田舎の必定。田舎はやっぱりどー転んでも面倒なところなわけで、そこに違う生き方を挟むことで起きる問題に目を瞑り続けるわけにもいかないだろうとも思うわけで、ここらへんも「移住」がなんとなくブームになっていることの違和感につながっているような気がする。

要は、「いつかいなくなるんだったら最初っからいなきゃいいのに」っていうことだ。
そんなモヤモヤが、311後の移住者急増時からずっとあって、今回の移住噺を知ってますます大きくなった次第。

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みませ屋の城下さん。

干物のみませ屋の店主であり、仁淀川お宝探偵団など仁淀川の活動でも10年近くお世話になった城下さんが亡くなった。

昨日夕方、お宝探偵団の生野さんから電話が入った瞬間、なぜか城下さんが亡くなったんだと思って、その時は電話を取れなかった。
少ししてから、もしかしたら違うかもと思ってかけ直したら、やはりそうだった。

ちょっと前にだいぶ悪いらしいとは聞いていたけど、たぶん本人も驚くほど早く、お迎えがきてしまった。

熱い人で、たまにその熱さがうざいぐらいの時もあったけど、半年くらい前にみませ屋の新しいパッケージのことで相談に見えたのが結局お会いする最後の機会になってしまった。その時は、あと5年、短くても3年は、太く生きるつもりだからよろしくと語っていて、既にほぼ完成させた状態だった新商品のパッケージの案も喜んで見てくれていた。
これでいきましょうと。あとは中身だねと。

このときは、ちょっと遅れ気味に見ていた「桐島、部活やめるってよ」にモンスター役で出演していたことなんかもその時にちょっと聞いたりして、楽しかったのを覚えている。

が、結局それから間もなく体調が悪くなってしまい、また回復を待っててください!ということで電話があった。
毎年司会役を務めてくれていた仁淀川での水切り大会もお休みになってしまい、結局その時に電話で声を聞いたのが最後だった。

城下さんとは、仁淀川やみませ屋のことでよく議論になった。
いや、議論というよりも、自分が意見をブワーッとぶちまけるという感じで、ウンウンと聞いてくれるのが城下さんだった。
結局曲げないところは全然曲げてくれないんだけど、
なんだかんだとわがままな自分のことを信頼してくれていたと思うし、
なんというか城下さんにだけはなぜかわがままを通したくなる、そんな相手だった(デザイン屋として良いかどうかは別として)。

かるぽーとの吉田さんも書いていたけど、悲しい。
まだまだあの熱さをうざがったりしたかった。でも、デザインを見せたら喜ぶ、あの浅黒い顔をまた見たかった。

この冬は、オーガニックマーケットの弘瀬さん、西日本科学技術研究所の福留さん、そしてみませ屋の城下さんと、これからの取り組みがどうなるのか気になる大人たちが逝ってしまう冬になった。

合掌。

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マッチのあった頃、街は元気であった。

昭和40年代から50年代。
あの頃、高知の街は元気でした。

私たちの手元には、当時の街の姿を偲ぶことのできるたくさんのマッチが残されました。
喫茶店、クラブ、スナック、キャバレー、居酒屋、ソバ屋、料亭・・・
いまも残る店はわずかですが、
数多の商いがこの街の活気を支えていたことを、
私たちはこれらのマッチから知ることができます。

ひとつひとつのマッチの向こう側には、たくさんの物語があったはずです。
いかにも小さい店構えであったであろうスタンドで、
いつまでも管を巻く酔客に手を焼く女将。
まだまだ海外が遠かった時代、ヨーロッパへの憧れいっぱいの店名をつけたマスター。
喫茶店で、バーで、毎夜繰り返されるたくさんの恋愛沙汰や事件の数々。

マッチのデザインには、その時代の流行りや技術も凝縮されています。
横尾忠則風デザインのマッチ、その名もよど号というバーのマッチ、
まだまだ珍しかった炊飯器をイチオシする電器店のマッチ。
いまや「禁煙」が時代の流れになってしまったなかで、
もはやマッチ自体が時代の遺産とでもいうべきものになってしまいましたが、
使われずに大切に残されてきたマッチは、
この街が過ごしてきた時代をそのまま私たちに伝えてくれるのです。

TACOの締めとなりそうな一冊「マッチと街」改め「マッチのあった頃、街は元気であった。」。
この製作が2014年6月刊行に向けて本日より本格スタートしてしまった。

この本は、2年くらい前にgraffitiで好評開催された「マッチと街」展で蒐集したマッチを中心に、昭和40年代〜50年代のマッチのデザインを一覧することのできる一冊としようとするもの。

作業的にはもう1年以上前からスキャンはしてもらっていたのだが、なんとなく腰が重くて放置プレーを続けてきた。
しかしgraffitiのシノッチが「マッチ本をつくりとうてしかたがないがよ」と言い続けるので、もーこれは限界だということで取りかかることに。

マッチ総数700近く、画像点数1500点のコンタクトシートを眺めつつ整理しつつ、なんだかんだと2週間近くアタマと時間を取られながら256Pの台割を作成。
まー8Pだろうが16Pだろうが32Pだろうが、本を作る時に一番楽しいのはこの台割の作成だ。
編集脳とデザイン脳をいったりきたりしつつ、面白い流れを作りながら面白くデザインできそうな方向性を考える。台割を考えるのはとにかくなんかアタマが破裂しそうに一杯になるので、この期間はパソコン環境を遮断できる喫茶店(主にメフィストフェレス)とかで一服→台割→珈琲→台割→週刊ポスト→一服→・・・の順番で作業を行う。
今回の場合は、全てのマッチに実際に目を再度通しながらデザインしたり撮影したり取材したりもしないといけなさそうなので、工程の計画もなかなか面倒で、果たしてどうなることやら。

ちなみに8月にはA5版16Pのフリーペーパーに衣替えする「OBIBURA第3号」、9月には高知県立美術館の「塩田千春ーありがとうの手紙」のドキュメント本、11月に「OBIBURA MAP2013」「旅たび高知第11号」も発行。しばし編集+デザイン系が今年後半は一気に増えるわけで、楽しみであり、、、恐くもあり・・・・

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東京画


© 1985 REVERSE ANGLE LIBRARY GMBH, CHRIS SIEVERNICH

一番好きな映画は、ヴィム・ヴェンダースの「東京画」だ。
1992年、京都の大学にいた頃、えらい荒木経惟にはまった。

一番はじめに手にして、一番はじめに買った写真集が荒木の「東京物語」。
小津安二郎の「東京物語」へのオマージュとしての写真集であり、
「芸大生的作家的活動」としてはじめていた写真にはまりはじめていた自分はずいぶんとこれに影響を受けることになる。
90年代初頭の「平成元年」「冬へ」「東京物語」は現在の荒木の写真とはまた違った独特の暗さがあった。バブルもほぼ弾けてしまい、なんとなく大学生なりにこれからどこへ行くのかよく分からない時代が始まろうとしていたし、いろいろなモノコトにどこかで虚しさを感じるようになりはじめていた頃で、自分的には荒木のここらの写真集というのは、そんな時代感覚を奇妙に映し出してくれる鏡のようになっていたのだ(セットされた写真で攻めていた篠山紀信は、今見ると全く違う角度からそんな風景を撮影しているような気がする)。

で、こうした写真集の解説や雑誌のインタビューなどでことあるごとに荒木がその名を出していたのが、小津安二郎の「東京物語」や「東京画」だった。

当然、見る。が、小津の「東京物語」は、なんというか前半の家族の過剰なまでな冷淡さがなんとなく肌に合わなくて、見る毎になんとなーく暗い気分になったりした。昨日も前半を見ていたら、やっぱりどうしても暗くなるので消してしまった。ここで描かれる東京とは、「3丁目の夕日」が描く「明るい東京」とは全く違う。
そして、その一方で、新幹線ができる前の戦後日本のまだまだ美しい風景とか、なんというか今ではちょっと信じられない時間の流れとかが普通に描かれていて(演出かも)、これに驚きもさせられる。


▲東京物語


▲東京画

「東京画」は、そんな小津の描いた東京を訪ねる映像による旅日記であり、また小津の東京が失われてしまったことを嘆きもする映画だ。

「東京画」では、公園でスーツを着たまま缶詰とビールで花見を楽しむサラリーマンの映像が流れる。
翌日には同じ公園で揃いも揃って短パンの小学生たちが野球をし、原宿ではタケノコ族がアメリカの音楽に合わせてブンブンと腰を振り、正しい振付をお互いに教え合う。
ゴルフの練習場では、ボールをカップインするはずのゲームの練習なのに、パターの練習をするよりもいかに美しくスイングを決めるかに必死の人々の映像が映し出される。
笠智衆や小津チームのカメラマンの厚田雄春へのインタビューをはさみながら、古びた街中を走る新幹線や無数に走る電車の姿、レストランの蝋見本の製造工場や黙々と人々を玉を打ち続けるパチンコ店の風景がヴェンダースの「もう小津の描いた東京は、ない」ことへの嘆きと共に流れてゆく。

小津の「東京物語」が撮影されたのは1953年。
ヴェンダースが東京を訪れたのはそのちょうど30年後、83年。
自分も丁度東京で暮らしていた頃だ(78〜85年)。
そして今年は、ヴェンダースが訪れてからちょうど30年。

いま、この「東京画」を見ると、ヴェンダースが「東京物語とぜんぜんちゃうやん」と嘆く以上に、この30年でまた東京は変わったように思える。都市としての基本的な構造は変わっていないと思うけど、「東京画」の東京は、まるで今の中国の映像でも見るかのように、なんというか奇妙な迫力がある。
まあそらそうだ、バブル直前の頃の話だもんといってしまえばその通りなんだけど、

小津が描く、いまから60年前の静かで美しいけれど、崩れ始めた「ふるきよき日本の東京」は、ヴェンダースが撮った30年後には「すっかりなくなって」いた。全編を通して東京は混沌とし、個人対個人の結びつきを感じられる画を撮ることが難しいとヴェンダースが嘆くほどになっていた。
だけどそれから30年経ってみると、まだ30年前のあの頃は普通にまだまだこの国は当たり前のように成長し続けると信じて誰もが働き、その寸暇を惜しんで飲んだり打ったり遊んだりする、奇妙な陽気さと暗さがあるように見えるのだ。
そして、笠や厚田の小津への深すぎるほどの尊敬。特に厚田は、本当に小津という一人の人の生き様を信じ、他の監督にろくに浮気することもできなかったというが、これもまたちょっと今見ると「不思議」な感じをなんとなーく覚えるのだ。
今見ると、ヴェンダースが嘆いた東京すら、「すっかりなくなって」いるんじゃないか。
電車の数は格段に増えた。暮らす人の数も増えた。ビルの数も比べものにならないくらいに増えた。みんな働き、みんな東京という遊びを楽しんでいる。だけど、もう30年前の熱気も、60年前の静けさもない。なんとなく白けていたり、なんとなく不安であったり、そんな空気がやっぱり「なんとなく」支配しているように感じる。
だけど、仕事をしていると、みんながそんな街の方を向いている。これもまた、「なんとなく」どこかで虚しくもあり。

下の映像は2005年に編集した「高知遺産」のムービー。単なる写真の羅列だけど、「高知遺産」は「東京画」からも影響受けてることを改めて思う。

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好きです。さっぽろ(個人的に)


高知遺産を作ったのはもう8年も前になる。もうそろそろ絶版になるのでこういう話ももうなくなるだろうけど、たまにその時の話を聞かせてくれということでお呼びがかかる。んで、今回は札幌。イベントの表題は「好きですさっぽろ(個人的に)」。

個人的な偏愛にまみれた空間や場所をその都市や地域に対して持つことが大事ではないかという感じのことがテーマの企画で、市民からの写真公募と今回のトークセッションからなるイベントだ。
札幌は190万の日本で四番目の大都市だ。しかも道内各地、全国各地から集まった人の寄り合い所帯のような都市だから、他人には無関心で他人への関わり合いをそう持たない土地柄だという。そのうえ名古屋のような地下都市としての成分も濃いから、地表での面白さは正直少ない。綺麗な碁盤の目の街であり、さらに歴史も浅い都市ゆえ、その無機質感にはまた輪がかかる。
だからこそ、今後どのような取り組みに転化していくのかはまだよくわからいところはあったけど、個人的な偏愛空間をひとまずはこの企画で表明しあい(もしくは改めてそれを考えるきっかけと作るということで)、札幌という都市をそれぞれがそれぞれの形で愛していくことをしよう!というわけだ。

トークセッションは三部構成で、地元北海道のスピーカーの中で唯一自分だけが道外在住だった。呼ぶきっかけを作ってくれたのは「北海道裏観光ガイド」をつくられた堀直人さん。北海道を裏や斜め視線から見つめ、出版系NPOの運営に関わり、デザインの仕事もしていて、自分となんか相似形。このイベントの内容ならこいつをということで名前が挙がったそうな。
そして、私もちょうど半年前、偶然にも岡山の451Booksで堀さんの「裏ガイド」をゲットしていた。ビニールに包まれたなんともいかがわしい本で、中身はよく分からないがとにかく買わざるを得ない感じ。炭鉱やら秘宝館やら路地裏やら、高知遺産や都築響一の珍日本紀行と相通じつつ、サイケだったりやたらと暗かったりと濃淡が印象的なガイドブックだ。
堀さんとのトークセッションでは、高速が通り、イオンが出来て西武がなくなり・・・といった街の変化の中、妙な危機感と勝手な責任感を共有した仲間と作った高知遺産の「成立理由」、この本がどこかで出発点になっている蛸蔵や土佐和紙プロダクツ、商店街の情報発信などの取り組みを駆け足で説明し、その後50分くらいいろいろと話をした。
札幌では、札幌の面白さがもうどこにあるのかよく分からなくなってきている部分もあるという。自分たちからすれば冬の札幌の風景それ自体が面白いし、二条市場の激安なホタテやタラバガニの並ぶ風景、狸小路の外れのアーケード、ススキノの裏路地や初夏のライラックの花が飛び交う大通公園などいくつでもあげられそうだがそうではないという。
まあこのような話はよくあることなれど、札幌におけるこの課題は、東京や大阪といった「内地」の都会とも、高知のような地方都市ともまた違う意味で深刻なのものなのかも知れない。もともと歴史や風土が浅い状況の中で、イオンをはじめとする大資本がロードサイドを占有し、苫小牧や釧路、旭川といった北海道の諸都市はどこもが数十年前の風景を失ったという。札幌はこの点でまだ救われているものの、都市化が進んで地下化が進めば進むほど、はたまた江別や恵庭などにまで広がる郊外化が進めば進むほど、どこに面白さがあるのか見えなくなってきているのかも知れない。また、市民の札幌愛も、おそらくは若干過剰な郷土愛を宣言する人が多い高知とはたぶん比べものにならないくらい少ないのかも知れない、とも。要は街に心を寄せる「よすが」がないというか。

なんにせよ、高知遺産も裏ガイドも「個人的に」も、基本は「るるぶ」やステキな「ことりっぷ」(今回の旅はこの本で遊んだけど)には載っていないような、そこに暮らしている人間が「偏愛」的に魅力を感じている場所を発掘し、編集・発信しようとする試みだ。
実際に自分たち自身が余所から来た人をどこへ連れて行くかといえば、桂浜や牧野にお城といった一般的な観光地ももちろんだが、自分だけが知っているような風景が見える場所も案内したいし、裏路地の小さな店や友達のやっているこだわりの店へもしっかり連れて行って人とも話をさせたいと思ってしまう。
そういう偏愛を持たれる場所や風景、店を持つ人がその街に多ければ多いほど、その街は「普通におもろい」ということになるだろうし、そういった情報がきちんと来る人にも住んでいる人にも提供・共有されることができれば、それだけで街の経済は少々潤うのではないかと思うわけだ。もしかすると、この流れをうまく作ることができれば、わざわざ観光資源を作るために大金をはたく必要もなくなるかも知れないし、職員を観光のためにたくさんはり付ける必要もなくなるかも知れない。
で。おそらくは、誰もがこんな「個人的な案内」はしている。だけど、そんな「個人的な」スポットに関する情報共有がなされていないこと、もしくは表明することがどこか恥ずかしいという状況、そういうところを変えていくことができたらいいのにね、、、というのが、今回のトークがオチたところだった。
一方、こういうことが妙に力強い「市民パワー」や「地域づくり」してますマインドにこうした動きがはまってしまうと、これはこれで相当に気持ちが悪い。単なる自分自慢や知識自慢のような片道通行な情報発信ではなく、もっとすんなり心に落ちるような編集の力が必要になるわけで、そこでは言葉や写真の力がまた必要になるはずだ、とも。要は一般化したいというか。

今回の企画で市民から集められた「個人的に」好きな場所とされたパネルを眺めてみると、まだまだ「好き」を表明するのが恥ずかしいのかなとちょっと思ってしまうくらい、いかにも「札幌」的な場所が多い感じはした。そういう意味ではまだまだこの企画は当然のことながら始まったばかりでこの先の道のりは長いよ、という感じだ。
だけど、それよりも重要なのは、これを札幌市という行政が関わって手がけているということなんじゃないかと思う。むろん最終的にこの企画を先頭に立って実行したのはコンサルであり、まちづくり会社であり、トークに出たのも自分や堀さんのような勝手に民間でやっているような人たちであるわけだけど、従来のスタンダードな代理店やコンサル任せな観光や文化、都市計画を考えてしまっているところよりはやはりセンスがあるように思える。要は安全牌だけでなく、博打な牌を打とうとしている面において、この先の可能性を少しでも広げておこうというところが、なんというか、頼もしい。
また、今回登壇したスピーカーもナビゲーターも、裏方を務めたスタッフもほとんどが30-40代程度と若くて、これもまた元気すぎる中高年層が分厚すぎて若い師がどーにも埋没しぎみな高知ではちょっと考えにくい感じだった。未だに人口膨張が続く大都市で、若い人の人口占有率もかなり高いからだろうけど、この差はなんというか、案外でかいかなと。

北海道裏観光ガイド→→→http://ura-hokkaido.x0.to/

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はじめての分業。

10月下旬から高知県立美術館でスタートする「大絵金展 極彩の闇」のためのチラシやポスター、図録かわりになる250ページ以上の絵金定本、看板などの準備を進めている(さらにCMもあるらしい)。

この上、この夏からやらせていただくようになった美術館ニュース改め「KENBI LETTER」のレイアウト(前回のリニューアル号はうまく切り替えできなかったが、担当のMさんも少し慣れてきて、今回から結構ガラリと「変えたかった方向」に変わりそう。もちろん絵金特集)もあるので、なんだかんだとここまでの1ヶ月とこれからの1ヶ月くらいは絵金まみれの時期なのである。

本については、図録としても、また書籍として各地の本屋でも売るものなので、なかなかできない経験になりそうである(とかこの時期にいうてるのはかなり危険なのだが)。しかも、高知でも出版系や印刷の会社にでも勤めていなければなかなかやれない上製本。並製本とはノドの考え方もちょっと違うし、並では当然決めることのないスピンやハナギレの話もある(付けないけど)ので、それだけでなかなか面白い。これまで作ってきた本はどれもこれも並か無線ばかりなもんで。

そして、今回これもまたはじめての経験なのが、東京のgrambooksというやり手編集者さんも入って校正や製本に関する差配をしてくれていることだ。grambooksは大竹伸朗のど派手な本とかも出しているところで、担当のKさんは穏やかな人なんだけど仕事はさすがに丁寧で細かい(高知にありがちなガハハえいやんそれでいこうや or ハイあんたに任せたきね後はやってや ・・とかで終わらない)。高知ではなかなかこうした書籍に関する編集専業の人を見かけないし、いたとしてもこういう美術書ができる人はまあ当然ながらいないわけで、改めて(というかはじめて)編集の仕事というものに触れるような感じすらするわけである。

とはいえ、以前同じく東京で編集をやっている妹が、帰省ついでにウチの事務所を「まるで我が事務所」のように活用した折にも、雑誌編集の現場の片鱗を見たような気はした。なるほどとにかく編集ってのは差配なのだなと。心配りなのだなと。とにかく細かくないとこりゃ無理だなと(自分には無理だなと)。ウチの事務所のように編集もしながらデザインをしつつ取材をしつつといったザックリ事務所(まあ田舎ならではなのだが)ではなかなかできんわいと。

まあなにはともあれ、編集者と一緒に仕事をするのはとにかく初めてなわけである。
で、先週東京に行ったのは、このKさんと打ち合わせをするためだったのだが(それまで一回高知で一瞬しかお会いしていなかった)、画像の取り扱いや紙の問題など、不確定要素が多かった印刷に関して印刷屋さんも交えて協議をさせてもらい、翌日には印刷所との話が決まらないとなかなか決めにくい表紙のことなども紙屋さんに赴いて決めたりして、一気にいろいろとまとまった。

こういう速度でモノゴトが決まるとなかなかうれしい。印刷所では、実際にその場でこの紙だったらいくらになるか、取り合いは良いかという話も即座にわかり、その場で紙を決めることができた。なので、半日はかかるかなと思っていた打ち合わせも2、3時間で終わった。あんまり言いたくないけど、都会の速度というのはなるほどこういうことなのねというのも改めて思わさせられる。

まあKさんによると、東京でもこんなに話が速くてコトのわかっている印刷屋さんと紙屋さんはいない(つまりいい担当者さんを狙い撃ちしている)ということだったので、そこそこ例外的事例なんだろうなとは思うけど、高知ではなかなかできない「分業」の良さというか、楽しさというか、そういうのをこの仕事をやりはじめてから初めて実感した次第なのである。

 

 

 

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特撮博物館展、巨神兵あらわる。

東京都現代美術館で開催中の庵野秀明の特撮博物館展は、
ここ数年見た展覧会の中でも異色さと面白さが際立っていた。

ウルトラマン、巨神兵、ゴジラ、戦艦や飛行機などの軍事物と、
自分ら世代が通ってきた道の裏側でどのような技術と苦労があったのか。
館長庵野秀明特撮博物館

特にオール特撮で撮影した「巨神兵あらわる」は映画本体もさることながら、そのメイキングが秀逸だった。
ものを作るというプロセス、その技術と、継承の難しさ。
職人の仕事はその多くが行き先怪しい状態だが、
特撮は印刷などと並びこの先が厳しい職種の一つなのかも知れない。

が、男としかこの面白さを共有できないのは残念。

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アユをしゃくる。

はじめての経験。
アユのしゃくり漁。
ついぞこないだ、「旅たび高知」の取材で訪れたグリーンパークほどので出会った、まるで高田純次のような適当さと生真面目さを持ち合わせた兄さん「ほそやん」とミョーに意気投合してしまい、はじめて出会って3週間後、仁淀川のアユ解禁にあわせて漁へ出た。

起床は2時30分。もうただでさえ入校前で毎日2時3時という時期に、この時間から活動というのは酷すぎる。事務所で数時間仮眠して、3時30分には伊野の川の駅で合流し、ボチボチと吾北・上東のポイントへ。

ご案内いただいたのは、ほそやんと、3年前からほそやんと一緒にアユを捕っているという岡林さん。こちらはいつも旅たびで取材に出るukikiと山中とおいらの3人。前日に翌日のアユとの出会いを夢想するだけで興奮しつつ手作りしてくれたというしゃくりの漁具を譲り受け、川へ突入する。


写真は水中を探索する2人。結局このポイントではアユは一瞬しかいなかった。

しゃくり漁はきわめて原始的な漁。水面をハコで覗きながら、アユの動きをみきわめてハリでひっかけるだけ。しかし、ぱっと視界に入っても、あっという間に岩の向こうに姿を隠す。
そして、あめごはうようよしているものの、あゆの姿はなかなかそうはたくさんいないもの。だいぶ慣れてきた後半になると結構姿を見ることができるようになったけど、最初のうちはポイントもよくわからず川の中をさまようばかりだった。
結局釣果は旅たびスタッフはゼロ。ほそやんと岡林さんも各9匹で、いわく「最悪」。今年は上八川川でも上東も含め全体的にだめで、吾北中心部の少し上流になる寺野あたりだけがヒットしたのだそうだ。

下の写真は吾北中心部の上八川川でしゃくりに勤しむプロ級?の3人衆。一人が流れをせきとめ、残りの2人が瀬の水中のアユを次々にしゃくる。ずっと見ていると、その顔はまさに狩人というか、獣のような顔に見えてくるのであった。