銀座で日曜市

銀座で日曜市。

土佐の日曜市はおばちゃんたちとの絶妙な掛け合いが面白い。
普通に居眠りしてたり、風が強ければさっさとたたんだり。
実際見ないと面白くないのが日曜市で、
実際見てしまうとその面白さにやられてしまうのが日曜市なのだ。
だけど、そんな日曜市がいつまでも「台無し」になっている。こたびの東西軸プランでも、日曜市が抱える後継者問題や空きコマ問題、店舗業種の均一化、距離が長過ぎること(昔より業種が均一化されたので、飽きてくる=長い)といった根本的な課題への抜本的対応がまだ不足している。そして広報PRも、たぶんどっかの代理店が受けてどっかのデザイナーがポスターを作って終わるんだと思う。
が、日曜市はデザインじゃ伝わらないんだよね、どうにも。数年前にあった日曜市のポスターなんてひどいもんで、それでわざわざ高知まで来るかおい?みたいなポスターだった。でも、実際作るのはすごい難しいなあというのもまたはっきりしてて、よさこいと同様にとっても「デザインしにくい」観光資源だと思われる。

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龍馬じゃ~と叫びすぎてその果てに。

前々回のログで、いつまでも龍馬じゃ~龍馬じゃ~と唸っているのは古い!と書いた。

これを今回は自分でもう少し考えてみる。おいら、龍馬が行くもおーい!龍馬も読み込んでしっかり育って来た龍馬大ファンだ。子どものころはベッドの横に龍馬のポスターを貼っていた。だから、へさべさの大河ドラマ登場で胸が躍るくらいだ。
だけど、なぜあえてそう書くかといえば、結局リョーマがなんたるかも大して考えずに、てゆか大した知識も持たずに騒ぎすぎる行政・経済・観光・メディア関係者の多さに辟易してるからだ。
「来年は龍馬伝の年だから龍馬をフィーチャーせんといかん」

何度この言葉を耳にしたか。
挙句のはては
「高知の観光の命運はコレで決まる」
やと。

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高知の公共交通ICカードが登場・・・だけど、ですかですか???

今日、友達の雑貨屋さんで話題になったこと。

EdyやIDといったオサイフケータイは、高知じゃほとんど普及していない。そのお店はIDに対応しているんだけど、これで買い物をしていった客はほとんどいないんだとか。で、その話の流れで来年登場する公共交通のIC カード、「ですか」の話題に。
2人の友人はカードの存在も知らなかったけれど、「ですか」というネーミングにはなんなんですかという感じ。カードができればジワジワと便利さが形成されて行くこと間違いなしし、利用するかもということにはなったけど、そもそも「ですか」はないよなあ・・・と。
まずこのネーミングで思うのは、たぶんsuica(関東)やICOCA(関西)、SUGOCA(JR九州)みたいに「か」をつけないといけない!という脅迫概念に迫られた感じだ。だけど、これらの名前はそれぞれ「すいすいいこか」とか「タッチしていこか」みたいな文脈を感じさせる設計の言葉であって、なんとなく乗ることや移動すること、タッチすることがわかるような言葉になっている。
もちろん、そういう交通系語彙タイプでないものもある。岐阜のayucaや岡山のHareca、静岡鉄道のLuLuCaなどがそうで、推測ながらそれぞれ鮎や晴れといった言葉と引っ掛けている構造だ(静岡は意味不明)。
で、高知はですか。なんというか自信がなさそうな、なんの言葉も引っかかってこない歯切れの悪い感じの言葉・・・。単純に心配するのは「忘れそう」ということと、「買うまでなんかめんどい」感じがあることだ。
まず前者は、他のカードと比べるまでもなく、「ですか」という言葉に二重の意味がないから忘れる。
「ですか」という言葉が普通すぎて忘れる。
後者は、車内で「ですか」を注文するのを想像しただけで歯切れが悪い。なんか恥ずかしい(車内でいつ両替をするかが少し恥ずかしいor面倒orタイミングを失うのと同じ空気感)。ちょっとだけサラ金っぽい感じもする。
「あのー、ICカードほしいがやけんど」
「ですかですか」
「はい、ですかです」
「少々お待ちください」
「ですかって、いくらながでs(以下略)
で、ひとつ提案。
せっかくやるんだったら、「トサカ」はどうですかと。
土佐のカード、鶏冠のような力強さがそのまんまの、正直なネーミング。カードのデザインもはっきりとしていていい感じになりそうだし、何よりかにより絶対忘れない。高知らしい、なんというか単純であけっぴろげな感じもいい。同じ笑われるでも、「ですか」と「とさか」じゃ全然笑いの質が違うはずだ。
今日、雑貨屋さんで広がった会話。これフツーの反応だと思いますよ。
おいら「高知のカードはですか、ながよ」
ふたり「ですか???(爆笑)」
「トサカ」。もしや候補にあがっていたけど、つまらん会議かワークショップで採用されず、当たり障りのない「ですか」になったものと勝手に邪推までしてみる。だけど、こういうもので中途半端なネーミングほどイライラするものはない。失敗のはじまりだ。試みが良いからこそ、ネーミングの悪さが際立つし、ネーミングが悪ければ試みはうまくいかないことだってある。もう高知はそういうことにいい加減気付かないといけないようにも思えるし・・・
今ならまだほとんどの人が「ですか」のことは知らない・・・!
今なら「トサカ」に余裕で変えられると思うのは、おいらだけか?

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住民力と1%条例

 高知県では、弱体化した県財政の問題もあり、「住民力」を高めることを大きな政策の柱にしているように見える。
  「住民力」とは、県財政の極端な悪化のなか、地域住民と行政が知恵と力を合わせて、介護、子育て、自主防災、健康づくりなどの各面で「支え合う」仕組みをつくっていこうというもの。要は官のサービスを従来通り行政で行なうものと地域で行なうものをさび分けし、官民で支え合うという仕組みだ。

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どれがどれやら。個性なき新町章の数々

えー。なんというか、今回の平成の大合併ではよくわからない名前の、さくら市だのみどり市だのなんだのと、もう全く歴史も地理もへったくれもない、たぶん「今」のことしか考えていない新市町名があふれだしているわけですが、どうやらこれは「紋章」でも同じようです。
クイズです。
下の5つの紋章は、仁淀川町、黒潮町、四万十町、津野町、中土佐町のものですが、どれがどれだかわかりますか? おいらにはさっぱりわからん。

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まちなかに、大きな森、なんて。【ダイエー高知店の跡地利用】

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 ダイエーの高知店が11月末で閉店ということが決まったらしい。もともと四国のダイエー自体が全て閉店ということになっていたから、まさに織り込み済みの話で、まあ特に驚くこともなにもない。ついにその日がやってきた! ただそれだけのこと。とはいえ、3年前の西武百貨店に続く中心市街地からの大規模店の撤退は、いくら集客力が底を打っていたダイエーといえど、商店街にとっては痛いことに違いない。
 そんななか、ダイエー跡地の利活用について、相次いで提案が出てきている。

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観光客エゴと地域エゴ【学ぶべきことの多い絵金蔵】

 どこでみつけたのかは忘れてしまったが、いまなお住民が暮らす白川郷に関する議論掲示板みたいなところで、「住民が出ていった方が美しい景観が守られる。。なんでまだ住んでんの?汚らしいよ」なんていう意見があって、またそれに同調する意見が多くてびっくりしたことがある。
 白川郷では観光客がいきなり家にずかずか入ってきて写真を撮っていったりとする事件が多いというけど、ああこういう気持ちでいる人って結構多いから、ずかずか入っていけるんだなあと妙に納得したものだった。以前白川郷に行った時も、平気で田圃に観光客が入って記念写真を撮ったりしている姿をみて、あまりのふてぶてしさに驚いたりしたことがある。

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コンサルタントの憂鬱

「地域づくり」のコンサルの仕事に就いてはや8年目。主に行政を通して住民の方と一緒に「地域づくり」という行為に携わるこの仕事、ここ数年で急速に嫌気がさしてきてしまった。
 結局、この仕事は行政やコンサルの「思い通り」にある程度コトを進めてしまうことができるのが実情だったりする。むろん、行政やコンサルが「こんな地域であるべきだ」と考えていることが、イコール住民の望む地域の姿であることもあるが、実際にはここで考えられる「あるべきだ」という像は、ごくごく普遍的なものであったり、至極当然に生まれてくるアイデアでしかなかったりする。

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高知遺産と「団塊の世代」

高知遺産の陰のテーマは「団塊の世代」と「団塊ジュニア」の価値観の相克だったりする。
団塊は創造と破壊の世代であり、ジュニアは創造への無関心と利用の世代。
団塊やその上の世代が汗水たらして創造してきたモノコトをジュニアは「与えられて」育ち、団塊がそのモノコトを破壊して創造を繰り返そうとする中で、ジュニアは「与えられた」モノコトの喪失を嘆いている。
団塊が「集う」ことに価値観を見いだし、その中で創造と破壊を繰り返す世代とするならば、ジュニアはより「個人」を重視することに価値観を見いだし、その中で自分の価値観に適合した『創造されたもの』を利活用することに長けた世代といえる。
むろん団塊もジュニアもそれぞれ全ての人々がそうだというわけではないけれど、世代観として見たときに、この傾向があることは否めないんじゃないかと思う。

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