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マッチのあった頃、街は元気であった。

昭和40年代から50年代。
あの頃、高知の街は元気でした。

私たちの手元には、当時の街の姿を偲ぶことのできるたくさんのマッチが残されました。
喫茶店、クラブ、スナック、キャバレー、居酒屋、ソバ屋、料亭・・・
いまも残る店はわずかですが、
数多の商いがこの街の活気を支えていたことを、
私たちはこれらのマッチから知ることができます。

ひとつひとつのマッチの向こう側には、たくさんの物語があったはずです。
いかにも小さい店構えであったであろうスタンドで、
いつまでも管を巻く酔客に手を焼く女将。
まだまだ海外が遠かった時代、ヨーロッパへの憧れいっぱいの店名をつけたマスター。
喫茶店で、バーで、毎夜繰り返されるたくさんの恋愛沙汰や事件の数々。

マッチのデザインには、その時代の流行りや技術も凝縮されています。
横尾忠則風デザインのマッチ、その名もよど号というバーのマッチ、
まだまだ珍しかった炊飯器をイチオシする電器店のマッチ。
いまや「禁煙」が時代の流れになってしまったなかで、
もはやマッチ自体が時代の遺産とでもいうべきものになってしまいましたが、
使われずに大切に残されてきたマッチは、
この街が過ごしてきた時代をそのまま私たちに伝えてくれるのです。

TACOの締めとなりそうな一冊「マッチと街」改め「マッチのあった頃、街は元気であった。」。
この製作が2014年6月刊行に向けて本日より本格スタートしてしまった。

この本は、2年くらい前にgraffitiで好評開催された「マッチと街」展で蒐集したマッチを中心に、昭和40年代〜50年代のマッチのデザインを一覧することのできる一冊としようとするもの。

作業的にはもう1年以上前からスキャンはしてもらっていたのだが、なんとなく腰が重くて放置プレーを続けてきた。
しかしgraffitiのシノッチが「マッチ本をつくりとうてしかたがないがよ」と言い続けるので、もーこれは限界だということで取りかかることに。

マッチ総数700近く、画像点数1500点のコンタクトシートを眺めつつ整理しつつ、なんだかんだと2週間近くアタマと時間を取られながら256Pの台割を作成。
まー8Pだろうが16Pだろうが32Pだろうが、本を作る時に一番楽しいのはこの台割の作成だ。
編集脳とデザイン脳をいったりきたりしつつ、面白い流れを作りながら面白くデザインできそうな方向性を考える。台割を考えるのはとにかくなんかアタマが破裂しそうに一杯になるので、この期間はパソコン環境を遮断できる喫茶店(主にメフィストフェレス)とかで一服→台割→珈琲→台割→週刊ポスト→一服→・・・の順番で作業を行う。
今回の場合は、全てのマッチに実際に目を再度通しながらデザインしたり撮影したり取材したりもしないといけなさそうなので、工程の計画もなかなか面倒で、果たしてどうなることやら。

ちなみに8月にはA5版16Pのフリーペーパーに衣替えする「OBIBURA第3号」、9月には高知県立美術館の「塩田千春ーありがとうの手紙」のドキュメント本、11月に「OBIBURA MAP2013」「旅たび高知第11号」も発行。しばし編集+デザイン系が今年後半は一気に増えるわけで、楽しみであり、、、恐くもあり・・・・

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山の町は優しくて恥ずかしがり屋な人が多いのだ。

3ヶ月に一度やってくる土佐電鉄のバス車内誌「旅たび高知」のしごと。
むろん色々な制約はあるけれど、比較的自由に自分色を出すことが(なんとなく許されているのか)やらせてもらえるこの仕事が大好きだ。 そして、この冊子の文章を書くことになる少し前の時期になると、文章慣れしようと身体がしだすのか、このブログやtwitterあたりでも少しだけエントリーが増えるようだ。

さて、来月3月1日からバスや銀座のアンテナショップ、空港あたりで配り始める第五号の取材が先週からワタワタとはじまって、先週は3日連続で嶺北へと通い詰めた。来週もたぶん一泊の予定で最後の取材をかける。どうしても冬場なだけに撮影できるものも限られてしまうのが残念なところで、いつもの号よりはやや力を入れにくいのだけど、それでもいろんな人と次から次へとバトンタッチするように出会えるので楽しい。

これまでの号では、室戸や須崎・中土佐などに重点をあてた特集を編成してきた。それでよーくわかるのが、その土地土地ごとの人々の性質の違いだ。室戸は基本みんなぶっきらぼうだけど、蓋を開けてみれば(もしくは酔っ払ってみれば)かわいらしいおんちゃんやおばちゃんがいた。曇りの日が多いけど、晴れたらとことん晴れる。メシは基本魚で、水は酒。そんな感じ。
須崎・中土佐は、イメージ的には開けっぴろげに見えるけど、意外ととっつきにくい感じがすることが多くて、室戸とはまた違う港町人の個性が垣間見えたりした。取材がしやすいようでしにくいというか、恥ずかしがり成分がそのままぶっきら成分に転化していってるような、そんな感じを受けることが多かった。むろんそれがイヤな感じだとかいうのではなくて、それがまた港町らしくて、とてもいい。

そして今回の嶺北。ここはみんな冗談が好きな感じがする。表向きあまり相手にしてくれなさそうだけど、ちょっと話をすれば途端に冗談を言い出すような、しかもなかなか家路につかせてくれないような人なつっこさに溢れている。一方で、顔写真を撮ろうとすると半分以上の確率で彼方此方に身体をぶつけながらでも逃げ出して、モデル代をもらわんといかんきほらwと男女問わずに撮られ逃げ口上を語る。・・・これは、恥ずかしがり屋でソロバン勘定をきちんとしているということか?
そして、男にはたまらない、豊かな食。土佐赤牛や黒牛など畜産の地域だけあって、肉がやたらとうまくて安くて、どこの店もボリュームがあって、大阪のお好み焼き屋のソースが店毎家毎の個性を競い合うように多くの店が「秘伝のタレ」を持っていることをさりげに自慢してくれる。

これはちょっと自分には意外な発見。取材に入るまで、嶺北は高知の中では数少ない、何もないところだと少し思っていた。きれいな棚田と美味しいお米はあるけれど、なんだかいろんな意味で静かなところだと思い込んでいた。

実際訪ねてみないとわからない。話を聞いてみないとわからない。「取材」という名分があると、こういう楽しみがあるもんだと、この仕事をやるたびに思うのだ。

 

ちなみに上の写真は、本山の商店街にある駄菓子屋さんの80過ぎのおばあちゃん。とっても話し好きのおばあちゃんで、写真を撮りすぎて「私この人嫌いw」と冗談で言われてしまった。いつまでも元気でいてほしい。

旅たび高知

 

 

 

 

 

 

 

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なぜこの島で暮らすのか。その答えを求めに、四国の本をつくる。

四国ってのは、なんか変な島で、魅力があるんだかないんだかよくわからないところなのだ。

でもただある種の人を引きつける力はあるようで(まあそれをいえばどこの地方も同じことだ)、九州や北海道とは全然違う色の、なんだか明るいんだか暗いんだかよくわからない、未来があるんだかないんだかもよくわかならい、そんなアンニュイというか、悪く言えば中途半端というか、だけどそんなところがギスギスしちゃった都会の人たちには妙に光って見えてみたり、はたまたただの暗い九州の手前の島扱いになったりと、やっぱりひとことでいえばよくわからない島なのである。

そんな島で、そんな島に暮らす人間たちだけでそんな島のことを本にすることになった。
言い出したのは高松でROOTS BOOKSという事務所をやってる編集者小西さん。2005年に「高松アジト×高知遺産」というイベントを高松でやって以来の飲み仲間。何か四国でやろうと挨拶のように言い続けて6年の仲である。昨年、ついにそれが動き出した。双方ともなぜか「徳島」だけは知り合いが少なくて困っていたところ、ある日突然活動的な徳島の面々が現れてしまい、ついにゴロゴロと唸り始めてしまったわけである。
去年の秋は一回目の顔合わせを高知で、二回目の真面目な編集会議は小松島で開いた。そしてこないだはコアメンバで新宮で小会議。

小松島での話は、どんな言葉がキーワードになるかだった。
高知に限らず、香川徳島愛媛を何度も往復していても思うこととしては、この島には「大したもん」はほとんどないということだ。四国は日本の3%経済といわれるように、また観光客数などの統計をみても、四国はほんとうに普通なのだ。てか、今の日本で考えたら普通以下かも知れない。この島にあるのは、凡庸な普通の暮らしがそこにあるということ。その暮らしの先っぽがちょっと地域性なるものをキラキラさせていて面白いということだ。

暮らしというのは、朝起きて働いてご飯食って仕事をし、買い物に行ってたまに旅して、遊んで酔っ払って寝る、そんなことの繰り返し。
四国に暮らすということは、そんなただの日常の繰り返しを、この島で送るということ。
結果、ふっと出てきた言葉が「生業」だった。「業」を生きる。単にそれがあるからここにいる。

大したもんはない普通の島。なのに、なんでそこにわざわざ生きているのか。たぶん、ここでわざわざ生きているのは、そこに「業」があるからだ。仕事があるからだ。つまり、超単純なことなのだ。 人に仕事があるから、他の人にも仕事がある。社会とは、たぶんそんなことの連鎖でできている。空気が好き、のんびりとした感じが好き、そんな理由でこの島に暮らしている人もいるだろう。だけど、結局遊んで暮らしているわけにはいかない。人は暮らすためには働かないといけない。働くために生きて遊んでいる。

最近は、ちょっとした田舎暮らしブームだ。特に311以降は、東京から田舎への回帰がたぶん戦後初めて真面目に進み始めた。だけど、なんか最近の「田舎」とか「暮らし」という言葉はどことなくフワフワしていて、ちょいと居所がわるい。それはなんでだろうかと思ってみると、結局は都会との繋がりの中でしか生きていけない、そんな感じの田舎に向かうニュアンスがどっかにあるからなんじゃないかと思う。むろんそんな役割を担う人がいてもいいしそれがないと人々の「暮らし」の集合体たる地域は成り立たなくなるわけだけど、そんな人やコトばかりになったらやっぱりそれはそれで気持ちが悪い。そんなんじゃ、都会がダメになったら田舎も道連れで潰れてしまう。でも、なんとなくここんとこの田舎はますますそんな方向に向かってる。311前の状況をひきずりながら、311後を模索している。こないだどーしてもなんか信用ならない東大地震研が東京で4年以内にM7が起きるとか言い出したり(実際には昨年9月までの余震が多い時期までのカウントを元に出した話で、なんとなく情報の正確性が曖昧で眉唾な感じが強くてしかたがない)したけど、東京の消費意欲が失われたら高知なんて一発でダメになっちゃうんじゃないかと心配になる。

実際、土佐和紙プロダクツも去年の3月11日まではそこそこ出るようになっていたのが、11日を境にぱったりと出なくなった。回復には数ヶ月かかり、しかも東京への出荷が中心だった傾向も弱くなった。食品とかじゃない、いわば「暮らしの余裕」部分の商材なので当たり前ではあるんだけど、おいらがやっているような仕事って、結局暮らしの「のりしろ」のような、余裕部分だけを担っている仕事なんだねと思ったもんだった。実際いま一番の不安は、いずれ南海地震がやってきて高知が壊滅的被害を受けたとして、その後に自分の仕事ってあるんだろうかということだ。少なくとも2-3年は用事がなさそうだとすら思う。

話を戻す。東京から田舎への回帰が進むのはいい。ここ20年が60年代と並ぶ東京への集中が進む異常期だっただけだと思う。だけど、その20年の間に、田舎はずいぶんと東京がないと持たない構造になってしまった。都会がないとやっていけない。こと高知は超高齢化県で県土が広いっていうこともあって、都会の儲けで道路を作って貰ってその工事費が回り回ってウチらのおまんまになっているようなもんだ(高知は金がないだなんてとんでもない。自分らの稼いでいる分の3倍近い金を東京や大阪から回して「いただけている」身の丈以上に金がある県だ)。他の四国三県は二次産業が高知ほど酷くないにしても、まあ全国の中でみればドングリの背比べ的なもんだろう(まあ高知は愛媛がクヌギなら高知はシイくらい小さなドングリだけど)。

そんなことを考えていたら、やっぱりこの島に暮らす人々から、理由を聞きたいと思うようになった。カタログをつくりたいということになった。千差万別の、この○があるから仕事がある人、この○があるから仕事を作った人。そんな数多の生業の先に、数多の生きる理由がある。それをまとめたら、なんかフワフワしぎみな四国ってものの、もうちょっとはっきりとした輪郭が見えるのではないかと。

 

 

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そしてまた帯屋町に通う日々。OBIBURA MAPとOBIBURA PAPER。

2年前に発行したOBIBURA MAPの2012年版と、帯屋町など中心商店街一帯の「へえ!」情報を探るフリーペーパーの取材と制作が同時進行している。

街を歩いていると、2年前より人が少なくなったとか、そんなことは思わない。思うのは、思ったより若い子が来ているということとか、思ったより新店ができているということ、思ったより店の新陳代謝も進んでいるということ。斜陽が叫ばれつつも、たとえば徳島とか高松あたりの商店街に比べるとまだまだ高知の中心商店街は人口の割には元気なもんだと改めて思う。

が、それでもやっぱり少しずつ斜陽には突き進んでいるようにも思える。これは商店街自身の問題というよりも社会構造の問題だろう。高齢化する都市に合わせていけば当然若い人は離れる。高齢者に合わせていればいずれ街は滅びることになるし、若い人に合わせていては商売にならない。そのギャップの中で、高知のような地方都市の商店街はどっちつかずになりやすくて、なかなか舵取りが難しいんじゃないかと。

しかし、もっと街に来る「用事」が増えないと、やっぱり基本的には厳しいよなとも。買い物の質という意味では、正直郊外のショッピングセンターと商店街に大差はない。昼飯や夜飯もついでに食べるのなら、気軽に安く済ませるつもりならショッピングセンターが手っ取り早いけど、美味しいところはさすがに商店街の方がはるかに多い。最大の問題として指摘されるのは子連れ客への対応や駐車場の有料無料という問題だけど、これも言われるほど大きな問題かというと、実際にはそうでもないように思えてならない。

結局は、街の情報があまりにも流れていない、そのことにつきてるような気がする。昔ならメガネのかどたのように今でも口ずさまれるCMが街発信でたくさんあったけど今はない。新聞やテレビ、タウン誌といった店の情報を報じてくれた媒体も総じて一昔前に比べると影響力を失っている状況の中で、街のどこになにがあって起きているのか、さっぱり分からなくなってしまっている。

また、さらに悪いことにネットを使った商店街からの情報発信量は圧倒的に少なく、結果的にTwitterやらなんやらでも飲み屋とひろめ情報は散々流れるけど街の店情報はほとんど流れない・・・という悪循環。ネットショップで儲けを弾きだしている店も結構ある一方で、ネットでなんぼ検索しても出てこない店があまりにも、圧倒的に多すぎる。スマホが当たり前になってどこでもいつでも新ネタが誰でも拾えるような時代になってきている中で、これはやっぱりちょっと厳しい。wifiも街で飛んでいるわけでは当然なく、モバイルが安心して使える店も少ないから、珈琲でも飲みながら仕事できる店も、やっぱり少ない。

昔通りにブラブラして「買い物するものを探す」買い物スタイルは、もうなかなか流行らない。他の街に旅に出てメシを食うところを探すにも、服屋の位置を探すにも、ネットにそのへんのことが分かる情報がほとんど転がってないという状況では、結局なんにもならないのだ。

また、商店街が「ちいきおこし」とかそういう市民活動的な話、学生の思い出づくり運動になんとなく使われる場面もなんとなく多くて、結局店の情報が流れるというよりも中央公園で何があったとか、そういうことにしかなってないのもまた無念。

それゆえ、過渡的措置として今回のフリーペーパーやMAPの存在価値は出てくるわけだけど、これだってあまりにも一時的なもの。取材に出歩いてみれば、あちこちに面白いものは転がっているし、これは!と思う味や人がゴロゴロとしている。まだまだ見つけられた数は少ないけど、もっと街自身が自信を持って情報を出していかないことには、やっぱり10年先には大変なことになってしまう、そんな気がする。

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今日も日が暮れる。

よーやくオープンなのだ。
準備足掛け約1年。ほんまたくさんの人がかかわってできる、新しい場所。

今日は準備の最終日。今日は朝から入ってなんだかんだとイロイロしているうちに、
あっという間に日が暮れてしまった。
この1週間、とにかく日が流れるのが早いこと早いこと。

今日朝から、じつは藁の束をイメージしてつくったアートゾーン藁工倉庫や
シェフと相談しながらボールペンでゴリッと描いた文字をそのままロゴにした土佐バルの看板も本日一式設置。
ポスターケースにも明日から始まる「パリに渡ったニッポンのアール・ブリュット」のポスターを収納。

昨日まではこういう「色気」成分がなかったのでなんとなく淋しげだったけど、
看板が入ると一気に「それらしく」なるのは不思議なところ。
植栽周りの照明とかも入ったのでますます「なんかやってます」感が出てきた。

ゆっくりとでいーので、高知にとってなんとなく必要な、気持ちのいい場所になったらえいのになあと思う。

http://warakoh.com/

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蛸蔵と藁工ミュージアム

 

藁工倉庫。
江ノ口川一文橋のほとりに建つ、高知市内ではもう最後ともいえる土佐漆喰の倉庫群。
この倉庫群を失われそうだという危機感を持って「高知遺産」で紹介したのが2005年。その後、高見町の物件を追われたgraffitiが入居したのが2006年冬、ART NPO TACO運営による蛸蔵がオープンしたのが2007年冬。以来5年を経て、現在のgraffitiや蛸蔵のある一文橋西側だけにとどまっていた「アートゾーン」的なるものが東の倉庫群へとさらに広がることになる。

今回、この東の倉庫群にできるのが、美術教育を受けていない人の作品「アールブリュット」の作品展示を行う新しい美術館「藁工ミュージアム」と、その付属レストランとしての機能を持つ「土佐バル」、そして移転再オープンすることになる「蛸蔵」だ。
運営を行うのは土佐茶カフェなどを仕掛けてきたワークスみらい高知とその仲間たち、的な感じで、この3つのうち「蛸蔵」の企画についてはおいらも所属するART NPO TACOのほか高知県自主上映映画団体ネットワークと演劇ネットワーク演会、数々の音楽イベントを仕掛けるterzotempoで立ち上げたNPO蛸蔵(理事長はおいら)が関わって行っていく。
で、ここんとこ毎週水曜日はアートゾーン全体の関係者一同で集まって3-4時間の会議を開いて諸々の準備を進めているのだが、昨日は1週間と少しぶりに新しい蛸蔵をみんなで覗いてきた。この1週間で一気に内装が立ち上がってきていて、倉庫兼楽屋的な空間の壁ができつつあって、静かに興奮。まあそりゃあと2ヶ月後にはオープンしているわけなんで遅いくらいといえば遅いくらいなんだけど、こうやって建物が建ち上がっていくとやはりなかなか感慨深いもんだ。

グランドオープンは12月23日。それに先立つ18日と19日には新蛸蔵でプレイベントとしてライブも開催する。新蛸蔵のこけら落としを飾るのは、mama!milk。もともと現在の旧蛸蔵を立ち上げるにあたっても、とにかくmama!milkにやってほしいという思いがあって、実際にこれまで2度演奏会を開いてもらった。なので、新蛸蔵でもこけら落としはmama!milkにお願い。今回は「Nude」というすんばらしいアルバムをテーマに演奏。ほんま、これはやばい時間が流れることになると思われ。

 

以下、18-19日のプレイベントと23-25日のグランドオープンイベントの概要。まだ細かいことはちょっと書けないことも多いのでアレだが(講演会等の出席者が確定次第追記していく)、あらまし、ということで。あと、11月に入ったらホームページも開設するのでそちらをどうぞ。蛸蔵の一般貸出受付も近日スタートします。

 

12月18日

19時00分〜 <新蛸蔵オープニング記念演奏会 第一夜>
mama!milk 冬の演奏会 Dialogue for’Nude’

12月19日
19時00分〜 <新蛸蔵オープニング記念演奏会 第二夜~夜をくぐる>
WATER WATER CAMEL+森ゆにライブ

12月23日
11時00分〜 餅投げ、祝辞等
12時30分〜 ランチパーティ at 土佐バル
14時00分〜 記念対談
19時00分 〜<新蛸蔵オープニング記念演奏会 第三夜~クリスマスの足音>
tico moonライブ

12月24日
10時30分〜 講演会
13時30分〜 講演会
15時30分〜 映画「海洋天堂」上映会
19時30分〜 <新蛸蔵オープニング記念演奏会 第四夜~光と影の小さな旅>
トウヤマタケオ(音楽:ピアノ)、nakaban(幻燈)

12月25日
10時30分〜 映画「ピュ〜ぴる」上映会
12時15分〜 監督トークライブ
13時30分〜 映画「ピュ〜ぴる」上映会
16時30分〜 イブニングパーティ
19時00分〜 坂田明&ジム・オルークライブ
21時30分〜 ナイトパーティ at 土佐バル

 

 

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紙を漉く。漉きまくる。

伊野の土佐和紙工芸村で、のべ5日間(参加したのは4日間)の土佐和紙の紙漉研修に参加した。
まあ研修とはいってもやや非公開的なもので、一昨年やった紙の博物館での「使える和紙展」以来なんだかんだとお世話になってる紙漉の磯崎さんや田村さんに直々に手ほどきをいただけるもので、本当にありがたすぎる。

一日目

楮のチリトリ
今回自分たちが漉く分の和紙は、TOSAWASHI PRODUCTSや竹村活版室の商品としても使う。
なので、初めてだった去年よりも漉く量はずいぶん多くて、三椏5kg、楮のチリトリ2kg、楮のチリトリなし2kgを用意してもらった。それぞれ初期加工は磯崎さんの方でしてもらっていたので、実際に自分たちがやるのは薬品などでそれぞれの原料を煮込むところから。
煮込んだ楮や三椏はそれぞれ丸ごと大きな桶に放り込み、流水で30分くらい流すのだが、楮はある程度手荒く扱っても大丈夫なのに三椏はあんまりやると細かい繊維が流れてしまうとか、材料毎に気遣いするところが違っていて面白い(大変)。
午後は楮のチリトリ作業。今年の楮は吾北から仕入れたものだそうだが、皮を剥ぎ取る「へぐり」が丁寧だったらしく、チリトリもそれほどには大変ではない。 まあ今年は県立美術館のイベント関連で別グループの人たちとも一緒だったので、その方たちがたくさんやってくれたというのも大きいんだけど。
夕方前には、三椏をビーターにかける。ビーターは、流れるプールのような形の機械で、ここに三椏ならそのまま、楮なら「タンタン」という皮を叩く機械又は人力で叩いてほぐした繊維を投げ入れると、何周かするうちに仕込まれた刃で繊維がほぐれ、紙漉しやすい程度になるというもの。もとは洋紙の世界で使われていたもので、昔の和紙ならタンタンをしたらそれで紙漉の桶に入れ、棒などでかき混ぜる「ざぐり」をしてから漉いていたそうな。 

ビーター
ビーターでぐるぐるまわるうち、団子状だった繊維はどんどんほぐれていく。そして、このあたりからほぐれた繊維が服や靴にかかると、乾燥するとそこに和紙の塊ができるようになる。和紙がさっきまで乾燥していた楮や三椏なのだということをなんとなく認識する瞬間だ。

ビーターにかけ終わると、今度は「スクリーン」という機械にかける。これもプール状のステンレスの桶なのだが、底に0.1mmくらいの細いスリットが何十本も付いている。ここに先ほどビーターにかけてほぐれた原料を入れて電源を入れるとダンダンダンと激しく振動し、スリットから細かい繊維だけが通過して落ちる。

スクリーンの作業。棒で繊維を底のスリットになでつけるスクリーンの作業
この工程は今年全くはじめての経験で、まあ実際甘~く見ていたのだが、思いのほか大変だった。というのも、5kgの原料を通すにはそこそこ回数が必要ということと、投入したらそのまんまスイスイと三椏が流れていく訳ではなくて、木のヘラのようなものでスリットを強く撫でつけ続けないと流れてくれないのだ。さらに、ダンダンダンと激しく振動する中でその撫でつけをしないといけないので、ビチャビチャと濡れるわ、ちょっと高いところにある機械なのでビーターから下ろした原料を投入するにはバケツに小分けにしていちいちウンショとしないとダメだわで、なんだかんだと全身を使う。

ましてや慣れてないわそもそも普段運動してないわ塩梅も当然わからないわで、たぶん3人掛かりで1時間くらいかけてやっとこさ終わったような感じだった。ちなみに小柄のウチのスタッフの山中氏は顔じゅうビショビショで、服やエプロンにもあちこちに和紙の繊維がつく始末。おいらも初日は靴で行っていたので、足下に落ちた三椏が靴紐の合間に入ったりしてしまったりする。

まあビーターもスクリーンも、どれもこれも「機械」とはいってもほとんど人力なりいつでも人の目が必要な原始的なもので、ちょっと人間が楽になる(とはいえかなりの差があると思う)程度のもの、ということらしい。タンタンだけはかなり差がありそうだけど。

ここらへんは、去年の研修記録を兼ねて土佐和紙プロダクツのホームページでまとめてある。

 

んで、二日目~四日目。

昨日思っていたより早く原料処理が進んだということで、昼前から早速漉き始める。まずは三椏。小桶で5-6杯を漉き舟に入れて、漉き舟全体をかき混ぜる「ざぐり」をする。それからトロロアオイを叩いて漉したノリを入れて、ざらに棒でかきまぜる。

ほぐして後は漉くだけの三椏みるのはかんたん、こぶり。
この棒でかきまぜるのを「こぶり」というのだが、これもまた塩梅があって、ボートのオールを持つような感じで棒を持ち、手前に引く時だけ強く「ザブッ」と鳴るように混ぜる。なんとなーくできるんだけど、磯崎さんに言わせると「なんか変」とのこと。たぶん4日のあいだ何回もこぶったけど、どうにもなんか変のまんまだったようだ(ちなみに他の人たちは「もっと変」だったような)。

漉き舟は普段工芸村のお客さんが葉書を漉いたりする用の小さなもので、本職の紙漉さんからするとたぶん相当小さい。一回両手を広げても余るような漉き舟で流し漉きをやらせてもらった時は、桁一杯に紙料が入った時の重さにビックリした。これを本職は一日に何枚も漉く。

紙料を桁ですくって水を落とす一回一回裏返して重ねていく
今回おいらたちが漉いたのは、今後の商品活用もにらみ名刺やA3程度の和紙がほとんどだった。漉き舟も幅90cmくらいの小さなもの。桁も持ち手のところは体の幅くらしかないから、当然そんな重いものではない。が、それでも一日じゅう漉き続けていると最終的には全身が痛くて、帰ると超疲れて仕方がなかった。職人の世界はやっぱり体力と集中力がないと到底無理だ。そしてなにより探求心と。

紙漉の工程は、2~4日目の間、常時2桶で3-4人(おいら、活版室、スタッフ山中、吉岡氏のうち。4日目は東京からスーベニアプロジェクトの小池田夫妻にも到着してすぐに労働を強要)で漉きまくった。仕上がったのは三椏と楮チリトリで名刺を千枚ぐらい、金封などで使う用の薄めの楮の和紙を数百枚、その他葉書や封筒、ミニカードなどなど。なかなかいい紙ができたので、近々商品にも使っていく段取りだ。

 

和紙の研修も今年で2回目。全く何が起きるのか分からなかった去年よりも、全貌が分かっている分楽しみつつ、また実際に自分たちで漉いた紙を売るということもあってそれなりに真剣に漉いた。まあ本職からすると甘い紙だろうけど、なんとなく、ほんの少しだけ紙漉さんの気持ちが分かったような気がしないでもない。

そしてまた、いつも「高い高い」と言われ続けてなかなか売り込みが難しい手漉き和紙を、これからどうやってほんの少しでも普及させることができるのか、そのための明示的なヒントというのはなかなかまだ見つからないのであった。これだけの工程があったら高いのは当たり前。されど素人目には機械漉きとの違いは分かりにくいという現実。

従来通り、建物内装や美術修復、美術作品用としての路線は当然堅持しつつ、その180度反対側にある「暮らしの中へ」的裾野を広げていかないことには、紙漉さんはもちろんのこと、楮や三椏の栽培農家、その加工工程(楮蒸しや皮のへぐり)を担う人々への対価を支払うことは(高齢化の先にある、山村部の急速な人口収縮後に特に)ますます難しくなっていくだろう。

農業とか物産と同じで「顔が見える」戦法もありそうだけど、これはこれでそもそも限界を感じるし、またスターを生み出す可能性はあっても広がりは薄くなる。他の産地との連携、全くの異分野との連携。土佐の手漉き和紙全体の裾野をどうやって広げるのか、まだまだよく分からない。

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壁を塗り、庭をつくり、店をつくる。

2月2日、竹村活版室がいよいよ本格的にはじまる。

これからは、店頭で実際にスタッフ(よめ)と相談をしながら、紙を選んだり文字を選んだりしながら直接活版印刷の受付ができるようになる。
で、まあ大々的に広報してるわけでもなんでもないので、きっちり間に合わせる必要はないんだけど、その準備作業ものんびりながら、そこそこ着々進んでいる。
先週のよめの東京出張中は、おいら担当エリアの庭を整備。たまに高木を切りにきてくれる庭師さんから「ずっと昔はきれいな苔庭だった。もともと和風の庭だし」という話を聞き、ちょっとだけ苔庭に改造した。これまでの3年間もいろいろと育ててきたけど結局枯れたり消えたりする草花ばかりだったので、もしかすると苔が一番合っているのではないかと。あと、安来の叔父宅から引き取ってきた灯籠もあるし。というわけで、日曜市や木曜市、ネットで苔を手配して、石組みも半分近く動かして3段の庭へ。定着してくれたらいいんだけどどうなることか。
ほんで、一昨日は壁塗りと照明の設置。壁は塗る予定はなかったんだけど、ちょっと汚くなっていたので元通り白く塗り直した。夕方からはよめがだいぶ前に買っていた照明を天井からつるす。で、今日は使わなくなっていたスチール机(必要な人、少し汚れてますがあげます)とかを外に出して、什器類を並べ替え。
これだだいぶ店らしくなってきた。
あとは看板、表の小庭、小物の棚とかをつくったらとりあえず環境整備は終わり。細かい作業はおそらく今週末の話でしょうな。
まあまだDMもほとんど出回ってないのであれですが、2月2日以降の水曜~土曜は基本的に店を開けて作業しているので、注文を考えている方や興味のある方はぜひにご来店を。
竹村活版室(2月2日オープン)
高知市宝町27-1
088-879-4088

takemura.kappan@gmail.com

http://takemura-kappan.com/ ←いつのまにかブログもスタートしております
地図
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土佐和紙プロダクツ、リニュ。

先月、なんか変な仕事ですっかり調子が狂って以来、どーにもやる気が復活せずにきてた。
まー二日酔いの日がとにかく多かったというのもあるんだけど、そゆときは、とにかく懸案を一つ一つ片付けて行くことだと思いつつ、まあそれすらも先月はなかなか進まない感じになっていて、なかなかしんどかったのだった。
ほんで懸案のひとつだった土佐和紙プロダクツのホームページを大晦日あたりからようやく手入れ開始。写真はd.d.officeで撮影(一部ウチ)し、webの構成や「土佐和紙ができるまで」の記事などはウチで担当。
とりあえず新商品としては、かなり買いやすい値段になったd.d.officeの「領収書ミニ」を新たなアイテムとして追加。飲食店とかカフェとかで使うのにちょうどいい感じの大きさなので、その系のお店の方はぜひにご注文を。
引き続き、1月20日頃からは便箋や封筒、帳面、一筆箋なども一気に投入予定。帳面は紙漉職人の磯崎裕子さんや北岡広文さんの手漉き和紙を表紙に使用し、活版でロゴを押した一冊一冊ごとに全然風合いが異なる小さなメモ帳。A7くらいの大きさなので、どこにでも入れて使える。
一筆箋は白い和紙に青い線が入っただけのシンプルなもの。和紙の一筆ってだいたいウザイ模様が入りすぎているので、その真逆路線のアイテム。大正町森林組合で作ったヒノキの箱に入れておくと、ヒノキの香りがほんのりと移ってくるしかけです。
このあたりは、今日印刷発注。
ある程度アイテムが揃ったら、今度は営業活動、なのだ。。。
土佐和紙プロダクツ