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ドラえもんへの雑考(1993)

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ドラえもんの最終話については、一時“のび太は植物人間で、ドラえもんはその夢の中での人物であった説”が流布され、巷間を騒がせた事があった。私はこの噂を聞き、本当に泣きそうになったものだが、実際には第6巻の「さようなら、ドラえもん」でドラえもんは終わっているのだ。その内容とは、次の通りである。

ドラえもんが未来の都合で帰らなければなくなり、のび太は泣いて止めようとする。しかし、やっぱり帰らなければならない。2人は夜を明かして語り明かす(オバQも同じような終わり方をしている)。その途中、ドラえもんは感極まって泣き出し、家を飛び出していく。そして、それを追うのび太は、空き地の近くで夢遊状態のジャイアンと遭遇し、我に返ったジャイアンにボッコボコにされてしまう。しかし、のび太は諦めない。
「君に負けてしまったら、ドラえもんが安心して帰れないんだ!!」
ジャイアンは「知るか、そんなこと」とまるでドラえもんに何の恩もされていないような事をここで言うが、のび太はジャイアンが逃げるまで抵抗するのだ。そこに、ドラえもんがやって来る。そして、のび太はドラえもんに言う。
「勝ったよ、ぼく。見たろ、ドラえもん。勝ったんだよ。僕一人で。もう安心して帰れるだろ、ドラえもん」。
それがのび太とドラえもんとが交わした最後の言葉だった。ドラえもんはのび太を床に就かせ、朝と共に未来へと帰っていく。もう机の引き出しにタイムマシーンの入り口は無い。のび太はドラえもんに誓う。僕一人で、やってみるよ。のび太は強く、逞しく生きて行く事を誓ったのである。
何度読んでも泣けて来る。しかも、第6巻の末尾にはドラえもんの道具事典も付いており、確かにドラえもんは終わった事を示している。第6巻には感動する話が非常に多い。「赤い靴の女の子」、「のび太のお嫁さん」がそれで、しかも、それらの話は最終話への伏線として、序章として展開されている事が分かりやすい程に分かる。それぞれ、[のび太の昔大好きだった“ノンちゃん”への慕情の終結]、[のび太がジャイ子では無く、静ちゃんと結婚する事になるという、のび太の将来の保証]が表現されているのだ。ここに[強く、逞しく成長したのび太]の具現である最終話が加わる事で、のび太の過去・現在・未来に「お話」としての終止符が打たれ、セワシがドラえもんをのび太の元に送り込んだ目的たる『のび太強化改造計画』が達成されたのだ。
のび太はドラえもんの登場以降、その怠けぶりに拍車がかかるばかりであった。そのままに終わるのではドラえもんに与えられた目的、ひいては存在理由そのものが脅かされてしまうし、何の哲学もない漫画に成り果ててしまう。しかし、この3つのお話によって、ドラえもんはその存在理由と哲学を明解に我々の前に提示し、終わっていった。
・・・そう、このまま終わるべきだったのだ。ドラえもんは藤子不二雄 が没するまで終わるまい。のび太はドラえもんの道具に頼り、自分の力を信ずる事なく終わり、ドラえもんもその存在理由を一切証明する事なく、にである(映画版については、少し事情が違うようだが)。
ドラえもんは第7巻の「帰ってきたドラえもん」であっけなく帰って来る。その内容は、以下の通りである。のび太は強くなっていなかった。ジャイアンとスネ夫に相変わらず苛められ、自閉にすらなってしまいそうな様子である。そんな時、のび太は“何か困った時には、この箱を開けるんだ”というドラえもんの言い残した言葉を思い出す。そこには、ウソ800という道具が入っていた。「君なんか生きていろ!」と言えば、その言われた相手は死んでしまう、という余りに怖い、言葉のアベコベクリーム的道具である。のび太は早速それを利用し、ジャイアンたちに仕返しするが、何か空しい。すると、ふっと思いつき、言う。
「ドラえもんは帰って来ない」
・・・ドラえもんは、未来の都合で帰ってきても良いことになった等と言いながら、再び引き出しから戻って来た。
第6巻の涙は何だったんだろう。以来、43巻にドラえもんは達し、藤子の代表作として今に至っている。だが、こんな安直な方法を再開にあたり執ってしまった事で、ドラえもんは世の子供達にのび太の逆説としての「強く、逞しく」ではなく、「便利な社会、ご都合主義」を啓蒙するだけの漫画に落ちぶれた事は、皮肉以外の何物でも無い。もっとも、ドラえもんにこんな穿った見方をする事なんて、意味がないのだが。

カメラトーク第4号(1993.11)所収
このテキストは、カメラトーク友の会から引用したものです。

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藝術ウンコ論(1998)

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2008.6追記
10年前に大阪の友人とメールで対談した記録です。
この時代はまだネットなんてそれほど充実はしていなくて、
こーゆーのを友人と書いてはデザインして印刷して、あちこちのお店を回って配っていたわけです。
お金もかかるし手間もかかるフリーペーパー。
だけど今のブログみたいに「さっと書ける」ことがないかわりに、
案外じっくりと書き込んでいて今読んでもミョーな力があるような気がします。
そうなのです、今じゃ絶対書けないのです。
ミョーに青臭いけど、軽くないような感じがする。
自分で書いた文章にハッとさせられたりする一文もあったりするし、
案外10年後の今読んでも、たとえばギャラリーの質低下やブログの増殖と同質化を
なんか見込んでいるような感じがして面白い・・・と自分は思ってしまいました。

アツ:アナマニア創刊、おめでとうございます。いやあ華々しく突然の創刊ですね。若者のやる気、いいじゃないですか!明るい未来だなあ!というわけでタケムラさん。今回のテーマは創刊記念特集に相応しく、「芸術はうんこだ!」というものなのですが。ハハハハ。
まあ読者の方々のために簡単にご説明いたしますと、芸術作品を制作する、ということは、うんこを出すことに通ずるもんがあるんじゃないかとこういうわけです。
いや私は何もうんこ自体を悪いもんだと言っているわけではないんですよ。まあね、うんこにもいいうんこ、悪いうんこもありますし、それを見りゃ現在の体調の善し悪しもわかる。つまりはうんこ(作品)を見て作者が最近何を食ったか(何に興味があるか)、ひいては現代社会の様相もわかるという大変便利なもので。ただ、そんなにかっこいいもんでもないんだぞ、という多少の皮肉も込めて、芸術=うんこと定義したいわけです。
ただねー。失礼千番を承知でいうと、いまのうんこ界ってあんまり魅力感じられないです。最近の風潮として、どうもうんこたれすぎじゃない ですか?全体的に。しかも自分のうんこの始末も付けられないうんこたれが増えてきたという感が往々にしてあるような。どうでしょう?
タケムラ:いやいや、本当そうなんですよね。芸術はうんこ。うんこっていうと何かいい印象はないけどね、実はすごい芸術っていう曖昧模糊としたものをはっきり見せる言葉だと思うのね。
うんこって臭いじゃないですか。でも、すごい臭いときもあれば別に臭いすらないときだってある。色も形も毎日違うし、他人のうんこは見たことないから知らないけど、多分形も臭いも少しづつ違う。今の地球上の人類がたとえ一斉にうんこをしたとしても、多分そのうんこは全部違うと思うのね。やっぱその人が食べてるもの、生活のリズム、体調その他云々で確実に違うモノができてくるわけね。
ほら、これって芸術っていうか制作行為と同じなわけよね。みーんな偉そうなゴタクならべて作品っていう名前のうんこをつくり続けているっていうわけで。
でもそのうんこ、最近みんな出しっぱなしなのよね。ああ今日のうんこはちょっと臭いからちょっと生活変えようっていうことにはならないわけで。これって無責任だよなあ。要はノグソですよ、ノグソ。

アツ:いやいやタケムラさん、うんこの定義はしっかりしましょうよ、野ぐそはあくまで、野に放たれたクソです。一応、やっちゃったんだからもう戻れない、っていう、人様の目に晒されるってことに対しての覚悟はあるわけでしょう。この場合、無責任にたれっぱなしのうんこはその野ぐそというプライドすらない。「とりあえずしてみたけどー、なんか文句あるー?」って感じで、まじめに見る気にも匂いをかぐ気にもなれない。まあ現代がそういう倦怠感に充ちた、万年膨満感みたいな風潮でもあるわけだから、それはそれで胃腸も張るだろうし出さなきゃひどい便秘とかで弊害がでるのかもしれないけど。でも、やたら他人のうんこ見せつけられて、「これが俺の生きざまだー!!」みたいに息巻かれても、ハァそうですか、ってしか言い様がないですよ。
しかも何か言われたとしても聞く耳持たないうんこたれもいっぱいいるでしょ。「解らんやつは解らなくていい」みたいにね。でも私は、一度体の外に出しちゃったうんこは最後まで自分が面倒を見るべきだと思うんです。その結果、それがクソ味噌に貶されるかもしれない。でもそれがうんこをたれる上での責任であり当然のことだと思うんです。自分(達)だけが気持ち良くうんこをすればいいってもんじゃないんですよ。他人の目に晒すわけですから。
しかも始末に終えないのは、うんこのクオリティよりも、うんこに関するスタイルをやたらしっかり持ってるうんこたれが罷り通っていることです。スタイルをどうこうって言うよりもまず、表現媒体としてうんこを選んだのならせめて、後世に残るような凄いうんこを追求して欲しいですよ。どうあがいてもうんこ、しかし腐ってもうんこなんですから。今のままじゃ下手なうんこも数撃ちゃ当たる、みたいで憤懣やる方ないですよ。うんこにも礼儀があって欲しいじゃないですか。野ぐそ以下ですよ、野ぐそ以下。あー汚い話ですねえ全く。
タケムラ:要は形から入ってるだけなわけだから、結局意味ないよね。時代で形の流行って変わるモンだしね。それにそんなうんこを数うちゃ当たるでひねりまくってるわけだよね。それってガンダムのジムみたいなもんでさ、所詮量産型はプロトタイプのガンダムには勝てないのね。スタイルは似てても、部品の質は落としてるから、弱い弱い!ジムが100機かかってもガンダムは倒せませんよ。うんこも然り。
ところでさあ、今日も一個みてきましたよ、若々しいうんこを。まだ見せ方ってのも何もわからないけどやってみたって感じのね。それで、色々と助言してみたんですよ、こうしたらああしたらって偉そうに。でも、アツさんいうところの「解らんやつは解らなくていい」ってのが先方には少しあって、別にどうでもいいっすよみたいな感じなわけ。
「それじゃあ何のために君はこうやってうんこを人前に晒しているんだい」って聞きたくなっちゃたのね。もち、聞かないけど。
結局こうやってうんこ並べ立てて、その行為にだけ悦んで、うんこの本質も見極めないで、いや見極めようともしないで何になるのって聞きたくもなるよね。それじゃあこのギャラリーは何?ただの便所か肥だめか?って思ったよ。やっぱ人前に晒すからにはさぁ、アツのいうところの礼儀っていうか、ちゃんと臭いも形も意味もきちんと自分なりに解釈してほしいよね。
アツ:若々しいうんこ。ハハハ。それってある意味しょうがないのかもしれないですね、だって、そういう若いうんこたれの通う学校、あんまり大きな声じゃ言えないけど例えばうちの学校なんかじゃ、うんこの効果的な見せ方もお便所の使い方も、ちゃんとしたことは教えてくれませんもん。ただとにかくたれろ!晒せ!って感じ。若いうちはそれいいのかもしれないけどね、年取ってもまだそれやってる人も・・・いる。
それはそうと、ギャラリーはお便所ですか。ううん、なるほど。そう考えると、きちんとお便所設備の整った環境ってのはそりゃあ幸せってことですよね。だって、うんこをする正当な理由付けのある場所だもの。それはそういった、うんこや排泄行為自体を立派に見せてくれる、という意味もあるけど、逆の立場、うんこを観賞する立場からいえば見たくないものを隠してくれる、っていうこともいえると思うんですよ。さっき言ったこととちょっと被るけど、はっきり言って無自覚な野ぐそって見るの苦痛でしょ。 身も蓋もない言い方だけど。それと同じに、無節操にその辺にこれ見よがしに展示してある、或いは放置してある作品ってなんか腹立ちませんか? あ、私だけですか。すごく稀に、ホントにドキッとする野ぐそがあって、心底惚れちゃうこともあるんですけどね。でもやっぱり、うんこはするべき場所にしてもらいたい、と。ほとばしる激情に駆られてしたけれど、後で周囲はおろか本人まで悲しくなっちゃうようなことはご免ですよね。
まあ、うんこをすること、つまり芸術活動には産みの苦しみも快感もあるわけですが、それはこの社会の中ではごく一部分の現象でしかないわけでしょ。だって、だからこそ「うんこ」なんですもん。これは私が勝手にこの芸術うんこ論の本質だと思ってることなんですが、その一握りの範囲での嗜好性、そしてそれに付随する行為である、ということを忘れて辺り構わずやたらとうんこをしまくるってことは、全体的、一般的に見たらかなり鬱陶しい行為であるんじゃないかと。・・・ううん、どうなんですかね。全く人畜無害な、それこそ空気みたいなうんこも中にはありますからね。その辺はわからないけど、結局お便所はあったほうがいいってことなんでしょうね。
ただ、お便所の種類、質に関しては、私個人的には あんまり拘りません。そりゃあ冴えない便所じゃ困るし、うんこ以上に目立つ便所や偉そうな便所もいやですけど。だって、どんな便所でも人のうんこ見るという行為自体に変わりはないですし、こういっちゃ失礼ですけど並んでるうんこだって、そう大差ないでしょ。ただ、便所を効果的に利用して汚してるうんこは好きですね。そういった意味で、便所はあくまで便所であり、箱であると思います。あえて求めるなら、干渉しないこと、つまり無個性ですかね。やっぱりうんこが命でしょう。なあ。
ところで現在、そういった形のある三次元のお便所よりも、雑誌やインターネットなどの媒体上での便所、いわばメディア便所ともいうべきものがはびこってるじゃないですか。私たちの作ってるフリーペーパーも実はそういったメディア便所の一種です。私は今後、このメディア便所が良きも悪しきも便所の要となるんじゃないかと考えてるんですが、どうでしょう?だって、高い金だしてギャラリー借りてうんこ見せるより、お手軽に自宅で私設便所を開いて、公共電波に乗せるほうがなんぼかお得で合理的ですしね。でも、メディア便所の蔓延はそのうちうんこ自体にも影響を与えると思うんですよ。だって結局、メディア便所で見れるのは、生のうんこじゃないですから。
タケムラ:結局これまでのお便所って、無個性であることでうんこ本体を際だたせる役割を担ってきたわけですよね。真っ白な壁面にうんこをおく。壁面は常に同じ純白を保つから、うんこそれぞれの違いも見えてくる。まぁうんこの本質を最も明快に見せてくれる場所だとは思うんですよ。だから、逆にいうとお便所がないと実はうんこをどうやって見せるかっていうことにきっとみんな困惑しますよね。
ほら、岡山でかつてあった自由工場とかが典型的だったんですけど、あそこは廃ビル全体をコンテンポラリーアートスペースとして開放したでしょ。当然最近までそこはオフィスとして使われていたわけで、壁面は真っ白とは限らないし、色々な配管だとか窓だとかのしつらえが残っていて、その上にみんなうんこをぶちまけたわけですよね。
でも、成功していたのはそう多くはなかった。結局「場」との関わり合いがうんこに求められたから、従来のお便所と同じようにしかうんこを並べることのできなかった人達は悲惨だったわけですよね。「場」との関わり合いを求めすぎて部外者には理解しにくいものも多くあったしね。そのビルの埃を集めて版画を・・・とかいう材料の求め方は理解できても、結局出てくるうんこやその並べ方を見ると、それまでのお便所に並べ立てたのとほとんど変わりがなかった。そういう意味じゃ、お便所とうんこの関わり合いってすごく大きいものだと思いますよ。もちろんうんこが命だとしても、お便所は無視できないと。まぁそれを無視できるようにニュートラルな壁がお便所には用意されてるわけですけどね、結局発表の場であるお便所がそんな「何にでも対応できる」仕組みになっているから、うんこが無軌道化していってるような気がするわけですよ。
それでメディア便所ですか、ホームページや雑誌といった新しい発表の場ですね。やっぱうんこへの影響は大ですよね。私は無軌道化に弾みを付けると思っています。良かれ悪かれ、あまりにも制約がないですしね。また、逆なんですがみんなのうんこが似ていくような方向にも向かうとも思いますね。素材とか形とか、特に目に見える面でです。
メディアの影響力っていうのはすごいもんですよ。日比野克彦が出てきたときもそうだったじゃないですか。みーんな段ボールで何かつくってヒビノ気取ってた。メディアっていうのは確実に「流行」をはらんでますからね、いくときは一気にいくけど、だめな時は全然だめ。
個人でページをたちあげていても、ほっといたら誰もきてくれませんよね。それじゃあいやだから、他のページとのリンクをしようとしたりしますよね。雑誌もそうで、載せてもらうために編集部に作品を送るわけですよね。で、誰かがそれを選ぶわけですよ。要はうんこをつくる人間よりも、そのうんこを選ぶ人間の方が増えるんじゃないかなって。
選民が行われるわけですよ。まぁ今の美術評論が東京と関西の展覧会に関するものに関してしか行われていないのと同じですよね。結局評論家が東京や関西しか知らないから、いくら地方で面白いうんこがあっていても評論の対象にはならないと。偏りが絶対生まれるわけで、そこらへんにメディア便所の可能性と危険性があるような気がしますよ。私たちがペーパーをつくっていても、同じコトは起きていますよね。あぁこの文章は違う!だからボツ!って。
アツ:そうですね、メディア便所の弊害でまず作品が似ていくってのは全く同感。やっぱりいまこうしてコンピュータのモニタ見てても、この画面上で伝わるものには限度がある。雑誌も然りで、特に立体作品や建築作品なんかはちょっと作品の本質とは違った伝わりかたをしちゃうことが往々にして多い。必要以上に演出されててやたらかっこよくなってたり、逆に貧弱だったりね。そのようなメディア便所でよりよく見えるようなうんこが大量に生産される状況ってのは、簡単に想像できます。
まあ本来はその見せかたも含めて完成したうんこになるわけじゃないですか。でも実際、生のうんこ空間(って言葉にするとすごく怖い状況ですね)っていうか、それなりのお便所があって、うんこがドカンとあるそういうリアルな空間を体験することは確実に減ってくると思うんですよ。実際に足を運ばなくとも、すぐ近くにあるわけだから。二次元の、しかも視覚でしか情報が伝わらないところでのうんこ体験ですよ。なんかそんなのうんこじゃないような気がする。匂わないし。まあ、無臭・清潔が今の流行の一個のキーワードでもあるから、それはそれで見合ってるのかも。だってそういうことでしょ、必要以上に自分を外界に晒さずいろんな疑似体験ができる、ってのが売り。なんかそう考えると結構きもち悪いですね。最新技術大好きですけど。
でもどうなんでしょうね、うんこを出す人よりうんこを選ぶ人が増えるってのは。そこは良く解らない。全部増えるんじゃないですかね。うんこ出す人、選ぶ人、あと一番増えるのはうんこを見る人。だってもう至る所にうんこうんこうんこうんこうんこでしょ。ちょっと堪らん状況ではあるんですが、いままでうんこに興味がなかった人もうんこを見る機会は増える。それでその人たちが今度はオイラもうんこ晒してみようかなってんでどうでもいいようなうんこが大量発生し、メディア便所もおおわらわでどんどん新しいうんこページやうんこ雑誌が新装開店する。まさにうんこ業界にとってはバブルですよ、この不景気に。でもさぞやうんこの価値も下がるんでしょうね。
こうなるとやっぱりうんこの質だと思うんですけど。きらりと光るうんこが、後々まで残り、伝説のうんことなっていく。だって質の悪いへんなうんこばっかりじゃそのうち大衆の興味も退いちゃいますよ。メディア便所も然りですね。ミーハーなだけなのはやっぱり続かない。まあそのうちインターネットも雑誌刊行ブームも落ち着くでしょう。その時にどれだけのうんこが、どれだけのメディア便所が残ってるかですよ。
あー、それにしてもこの対談、いつまで続くんでしょうね。いい加減臭くなってきました。
タケムラ:粗製濫造の時代ですね。まぁ言うたらこの「アナマニア」だって、結果的にはアツの言う「至る所にうんこうんこうんこうんこうんこ」っていう現象のかたわれであるわけですよね。きらりと光れるかどうかは分かりませんけどやってみようって感じで始めてしまいましたし。でも、みんなそんな気楽な感じでやりたいと思うことをやれる、という幸せな時代なのかも知れませんね。
でも同時に、みんなが見せる場所を得た以上、本当にいいものをつくって売り込みして、継続的にそれを続けていくことができなければ、たとえ光っていても発掘されることなく終わる・・・そんな厳しい時代がやってきているのかも。こうもみんながうんこを見せることが楽になってきたら、また更に先をゆくうんこの見せ方を提示しなあかんわけで、ということは今の時代の構造っていうか今後も見越す能力がないとやってけないわけですよね。きちんと1年後のうんこ社会を取りまく状況を予測する能力というか、そこまでいかなくても計画的にその時代時代にあったうんこの見せ方を提示できる能力が伴わないといけないわけで。 ほら、バブルの時に頑張ってきちんと経営も経理もやってた会社が今も生き残ってるわけじゃないですか。あの時代に計画性なしにやってたところは今苦しんだり潰れたりしてる。コピーの三田とかヤオハンとかね。
まぁそんな人なんて、そうはいませんよ。まぁ自分もそうなんだけど、今うんこをひねることこそ大事っていう人がほとんどだもんね。でも、ひどいのは未来を予想するどころか過去を遡ることもしない奴が多いってところじゃないですか。何か新しいうんこひねった気分でいるけど全然昔に誰かがやったことだっていうのを知りもしないでやってる奴とか、いつまでたっても自己満足のうんこで終わってる奴とか多いもんね。そういう奴に限ってやたらアクが強くて困るんだけど。vメディア便所なんてのは自己満足で終わることがもう完全に許される場所だから、余計怖いよね。巷にはびこるクリエイター系雑誌だとかフリペだとかネットって、ほんと見てて辛い時あるもんね。「あぁ多分この人はここにうんこを出してしまったばっかりに何だか有名になった気分になってちょっぴり天狗入っていってしまうんだろうなぁ、ほんでもって後輩にほらおいらのうんこがのったんだよって自慢してみたりするんだろうなぁ」ってさ。カメラトーク友の会もかなり自己満足で終わってるけど、これからも活動を続けていくなかでそんな状態からは抜け出ていきたいもんだね。それできちんと5年後10年後も地道にやっていけたら幸せよ。
いやあそれにしても疲れたね。もうそろそろ締める?
アツ:そうですね、未来の展望と抱負も出たことだし。
不本意ながらも気恥ずかしいことをいえば、本来人間は常に当たり前に何かを表現し、生み出しているわけでしょ。大なり小なり。だからこそその創造活動のうちでも最も顕著な行為である芸術を、みんなが当たり前に出してるうんこにたとえたんです。始めに書いたように、それは決して芸術行為を不当に貶めるものじゃない。
ただ、うんこについて深く学び、うんこを出すことを生業とし、そのうんこをあえて人前に晒す、という行為は、うんこが人体のいち排せつ物であると同じく、社会全体の中の一部分です。だからそれなりの意識を持ってやってもらいたい。かっこつけても所詮はうんこです。だけど実際素晴らしいうんこも沢山ある。お堅いことは言わないけど、潔くて、己をわきまえてて且つハッとするような美しいうんこを見たい、造りたい、というのがこの臭くて長ーい対談で私が一番いいたかったことです。
では、伝説のうんこを夢見て、さようなら!次回のうんこをお楽しみに!
・・・かっこよく締まりましたね。珍しくまじめなことを考えたもんで肩も凝ったしおなかも減りました。しばらくうんこのことは忘れたいです。ねえタケムラさん。
タケムラ:疲れました、もうね。最近トンとこんな事は考えなかったもんね。うんこうんこって書くと汚らしいけど、作者の生活、思想、性格その他諸々を昇華して作品にしていく作業は、人間の食べ物の消化・排泄のしくみと全く同じです。うんこに作品を例えていくと、 作品を単純に一方向的な作品論としてまとめるよりずっと具体的に見えるんじゃないかってのがこの対談の趣旨。
今はまだ若いから、食っちゃ寝食っちゃ寝、うんこして食べ・・・を繰り返します。まぁ若いからお通じも快調です。そしてそんな日々を送りながら、ゆっくりと成長していきます。
でも、好き嫌いしてたらいけませんよね。成長にも様々な良い悪いの影響が出るし、出されるうんこにも絶大な影響を与えちゃうじゃないですか。肉ばっか食べてたらくさいうんこになるし、野菜ばっか食べてたらぱさぱさうんこになったり?するし。そのへん、きちんと妙な選り好みをせずに食べてる人のうんこが、いわゆる「ハッとする」うんこになるんじゃないかと思います。
でも、そんなうんこになんてそうそうお目にかかれない!またそう簡単につくれるもんじゃない。でも、考えていくべきだし、作り出す努力を重ねていかなきゃ気が済まないっしょ。
では、またいいうんこが出たら、お目にかかりましょう。ほな!
1998.9.16〜10.18 京都・高知 メール対談
アナマニア第1号(1998.9)所収
このテキストは、カメラトーク友の会から引用したものです。


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桜の頃(1999)

あれから11年。彼らがのった列車が上海で事故に遭ってからもう11年だ。
自分はあの列車にのっていたわけではないし、知っている人も失礼な言い方だがそんなにたくさん亡くなったわけではない。でも、未だに3月24日が近づくと突然どきりとする。これこそがトラウマというやつなんだろうか、たとえばニュース速報の音、彼らの棺が並んだ空港の倉庫、3・2・4の数列、高校の校舎、テレビカメラの放列、上海という言葉の響き。いまだに逃れることのできない傷口がそれらを見聞きすると疼きだす。
別にあの事故を背負っているわけでもなく、そもそも背負う必要もなく、でも忘れることのできない恐怖の日々がいきなり蘇る。はじめて死ぬということを直接間接に見たときだった。あまりにもその死のカタチはいびつすぎて、あまりにも強烈な時間が流れすぎて、消去できない日々になってしまった。だから、もう忘れようとすることはやめた。
高校の時の友人なんてもう誰もつながりがなくなったのに、あの高校で育ったことすら後悔するほど嫌いな学校なのに、それでもあの事故だけは残り続ける。桜が咲き出すと、毎年こんなことを考える。もう11回も繰り返して。
Idletalk第5号(1999.5)所収
このテキストは、カメラトーク友の会から引用したものです。

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京都って、なんだろう(2000)

text/フジガキアツ・タケムラナオヤメール対談

アツ:ああとうとうこの時がやって来てしまいました。満を持してのこのテーマですねえ竹村さん。いや今回ばかりはあの頃に戻って「リーダー」と呼ばせていただきたい。ねえリーダー、このテーマを持ってくるって言うことは、アイドルトーク、いやカメラトーク友の会にとって物凄く大きな意味を持つことですよね。これやっちゃったら後が無いじゃん、みたいな。ん? まままさか、アイドルこれで終わりなんてことはないよね? まあ、お終いじゃないにしても、ひとつの節目となりうる重大なテーマということですね。
忘れようとしても忘れられず、思いだしては笑い合い、時に胸がぎゅっと苦しくなる学生時代、あの頃私たちは京都に住んでいて、そして出会いました。全てが京都で始まったわけでしょ。それだけに思い入れが深いってこともあるけど、それだけに留まらない何かが、あの町にはある気がします。それは何なのか。過去のかさぶたを無理矢理はがし、傷口に塩を擦り込むような気持ちで、今回の対談を進めてみたいと思います。

竹ムラ改めリーダー:はいどうも。背水の陣というやつですね、ずっとやりたかったテーマなんだけど何か難しいテーマ。結局「過去にいた」という事実そのものがあまりにセンチメンタルで、筆が進まない。こんなに苦しいテーマって他にないかも。
思いがもう混乱してて、いろいろな記憶がありすぎて、何から書いていいのか、どこへ落としたらいいのかがようわからん。まあそんな難しいテーマだけど、それでも京都ってなんなのか、ちょっとずつ自分たちなりに紐解いてみたいね。なんでこんなに京都が好きなのかってことを。
僕は京都から高知に移ってもう2年半ぐらいになるのね。それで出張やら遊びやらで京都には半年に1回くらいは行っているわけ。恵文社で本探したりとか、同級生の結婚パーティだとか、出張ついでとか何だとかで。それで思ったのが、京都って、たまに行ってもあんまり「よその町」っていう感じがしないってことなのね。
まだアツが京都にいた頃、車で高野の家まで行ったでしょ。あの時は京都離れてからはじめて京都行った時だったんだけど、なんだかとても普通で、帰るときもいまいちこれから高知まで帰るんだっていう感じがしなかった。五条の家に帰るような錯覚覚えたりするくらいで。あーまだ離れて間もないしこんなもんかってその時は思ったんだけど、やっぱり行くたびにそうなのね。そーゆうところがあるから、なんだかあーまた帰ってきたいなあって思ってしまう。

アツ:ううん、まさに。私も大阪に住んで1年半になるけど、ふた月とあけずに京都の友達に会いに行ってるかな。でその帰り京阪電車に乗ってる時の淋しさったら無いですよ。友達が住んでるからってこともあるけれど、たとえばこれが私が京都に住んでいて大阪の友達のところに遊びに行った帰りだったとしたら、きっとこんなに淋しくはなんない。やっぱり京都に行くたびに「ただいまあー」って言いたくなるし。
何でかって考えてまず出てくるのは、学生だったからってことかな。私が京都で過ごした6年間はずっと学生だったんですけど、やっぱ学生時代って特別じゃないですか。私たちは特に親元離れて京都に住んだわけだし、ひよっ子のペーペーが一人で生活を始めることによって、ちょっと成長するというか。私なんか京都という町でもう一度「生まれた」と言っても過言じゃないくらい、それまでとは根本的に考え方とか価値観とかが変わったもの。見るものやること全てドキドキの体験ですよ。加えてお金はないけど時間はたっぷりある。そうすると何をするでもなく無駄にだらだらする時間が増えて、結果的に地域に親しむってことになるんですよね。そうすると京都ってのは昔から学生の町だったりして、貧乏な若者でも不自由しないような作りになってると。チャリでどこでも行けたり安い食堂があったり文化的な施設があったりね。ちょっと外れればすぐ山や川があるのもいいところ。もう縦横無尽にチャリで走りましたよ。転んだのもいい思い出です。

リーダー:確かによく転んでた。高瀬川で「follow me!」とか叫びながら滑り込むとか、凄まじかったよね。まあそれはいいとして、学生は時間がたっぷりあるのはどこのまちでも同じことだとは思うのね。でも、そもそも京都っていうまち自体がなんだか時間をたっぷり持ってて、いやあの、1200年とかそういうんじゃないよ。かといって田舎的のんびり感じゃなくて・・・どう言ったらいいんだろ、とにかく過ごしやすい時間が流れてる。大阪みたいにせせこましくないし、東京みたいに角張ってもいない。焦りがないっていうか。で、そんな時間の流れ方と、学生の時間の流れ方ってのがなんかすごいフィットしていたというか。特別な時間を、なんだか特別なまちで過ごしたなあってよく思います。
大体チャリってのもいいよね。足は市バスか自転車か。今回の特集で原稿集めててもチャリに関する話は多かった。僕も日曜のたんびに嵯峨野だ伏見だって走り回って、最後のほう足が上がらなくなったりしてましたよ。

アツ:よく走ってましたよねえ。一時。アホじゃなかろうかと思うくらいに。っつーかアホだったんだろうねえ、あの頃は。いや、リーダーだけじゃなくて皆ね。酷く疲れたときだとか、傷心なときだとかにぼけーっと走ったことって私もよくあったなあ。まあ精々上賀茂止まりでしたけどね。自転車で走ると景色がゆっくり見れるんですよね。京都って何気ない景色でも絵になるところが多いでしょ。高野川べりの桜並木とか賀茂川べりの柳のやわらかい枝とか。春でも夏でも秋でも冬でも、いつでも何かしっくり来る。
凄く好きで何度も良く行ってた場所ってありましたよね。私はやっぱり川沿いだなあ。賀茂川のホラ、北大路通りの植物園よりのところにテーブルあるでしょう。あそこによくご飯作ってお酒持って行ったりしたな。昼でも夜でも。昼は犬が大集合したりして。それから疎水。動物園の裏とかでよく釣りしました。コーヒー沸かしたりしてね。老若男女が釣り糸を垂れてるの。目指すは勿論巨鯉、でも釣れるのはブルーギルや似鯉。夜のしじまを縫って動物が突然奇声をあげるわけ。猿だか鳥だか解んないけど、「ギャアーッ」って。ギョッとします。雰囲気あるよー。夏の夜とかのあの生ぬるい空気が良かったな。盆地ならではの物凄い猛暑の一日が終わり、微かに熱の名残が残る、密度の濃い空気。もう何か猛烈に幸せになって、そのまま夜明けに宝ヶ池公園まで自転車飛ばして、忍び込んで子供用のトランポリンやったり。アホですね、やっぱり。
リーダーのお気に入りスポットってどこ?

リーダー:僕はやっぱり疎水かなあ。疎水いうてもマイナー疎水で、市バスの北白川あたりから高野の方へ向かうあたり。哲学の道みたいに観光地化されていなくて、なのに大きな桜がこれでもかって春には咲いて、たまらなかった。別当町のあたりにおいしい蕎麦屋があってよく行ったりしてたわ。なんだか世話好きでモノをあげたがるおばちゃんがいて、なんか知らないけど大きい扇子だとか障子だとか貰ったりして困ったこともあった。あと鴨川。川端二条とか河原町五条とか意外と長いこと鴨川沿いに住んでたってこともあるけど、自転車でぶらーっと先斗町あたりを眺めながら走ってみたりして気持ちよかったな。酔っぱらって河原で寝てたこともあるし。
でもなんかお気に入りっていうと川とか池とか水廻り多いねー。それこそアツのいう盆地の猛暑から少しでも逃げようとする自然の摂理なんだろか。京都では数少ない、風のよく抜ける場所だしね。

アツ:ああ、そういやそうかも。水辺好きだよねえ。まあ確かに暑いからってのもあるだろうけど、水辺ってなんか感傷的っていうか叙情的な気分になるじゃない? 特に京都だからって訳ではないんだけど。でも京都ってそう言うセンチメンタルが似合う気がする。私だけかな、そう思うの。
まあそれに関係するのかもしれないけれど、「京都」にあるのはどういうわけか前向きな力ではないような気がします。何かしら後ろから引っ張る力。それは歴史の重さとか郷愁とか保守的とか言うことかもしれないけれど、町自体にそう言うベクトルがある。人も町並みも、守るものの大きさに、頑なになってる気がするんだよね。勿論それに反発して異様に革新的になろうとする動きもあるんだけれど。
だからかもしれないけれど、京都のことを考えるにつけ何か思考が後ろ向きになるんですよ。これって私たちがよそ者だから? 地元の人たちにすりゃ「そんなことあるかい!」って感じなんだろうけど。まあ京都に住んでいる間はあんまり感じたことが無かったって事は確かなんだけどね。

リーダー:基本的に「歴史都市」ってのはそういうもんなんじゃないろうか。奈良とか鎌倉とかもそうだけど、やっぱ守備専門なんですよね、基本的に。
アツの言うとおり引っ張られるものが多すぎて、何かする度考える度にいちいち郷愁にはまらないといけないっつーか。ほんで、その郷愁にはまり過ぎていることに気が付いたりした時、逆転の力が働いてみたりしてね。・・・郷愁で終わったのが祝祭1200年の一連のイベントで、逆転の力が京都タワーだとか京都駅だとかに残ってるような気がするんだけど、どうだろ。
まあそれでも京都はうまく行ってる方かなあとは思いますよ。後ろ向きの力に反発する力が働くというだけでも。やっぱ歴史への郷愁だけじゃ都市は成り立たないんですよね。都市のアイデンティティを郷愁におもねるのは結構だけど、結局そればっかになっちゃうと歴史の重みが都市の歩みを邪魔をするわけで、そうなったら最後、奈良とか高山みたいになるのもまた見えているわけでさあ。
ほんで僕らが京都のことを思うと後ろ向きになるってのは、見事郷愁にはまっているというわけなんですよ。これってもう立派なよそ者になったっていうことなんじゃない? 逆に僕らが京都に「京都はかくあるべきだ」っていうイメージを押しつけようとし始めているというか・・・。

アツ:・・・リーダー、随分丸くなったよねえ。学生の頃のピリピリするような辛さが嘘みたい。こういう話題にはまず噛みついてた。その事だけでも充分、私たちが京都から遠いところに来てしまったんだなあっていう郷愁を感じるよ。
確かに私たち「よそ者」がやいのやいの言ってイメージを押し付けてるってのは事実。でもそれって逆に考えると、それだけ「京都」に価値があるってことを皆が認めているからですよね。常勝の辛さって言うの? ジャイアンツと一緒よね。まあ迷惑かもしれないけれど、でも京都にはそれを受け止める器の大きさがあると思う。甘受するでも全否定するでもなく。何よりも町にも人にもプライドがあるから。いい意味でも悪い意味でも、自信を持ってるでしょ。今じゃもう笑い話みたいだけど、フランス輸入の橋が架かりそうになったとき(*1)にもちゃんとノーって言ったし。自分たちで取捨選択が出来るってことは、それだけの自信があるってことだよね。あんまり認める人はいないけど、私個人的には京都タワーってある意味凄い京都っぽくて好きだなあ。京都駅から一歩出て空を見上げたとき、暗闇に浮かび上がる象牙の塔はなかなかの絶景。
プライドと自信のある町。だからこそ私たちは京都に惹かれるのかもしれない。特に若い頃はラディカルなものに対する憧憬と反発心が強いから余計にさ。

リーダー:そーなんだよね、京都は恵まれてる。京都ホテルや京都駅の高層化で景観論争が巻き起こった時も、実際洛中は大揉めだったけど、それ以上に洛外で様々な立場から京都の景観とは何かってことが議論されてた。さっきも出た奈良や鎌倉ってのも度々景観を巡って論争が沸き立つけど、京都はその比にならない注目度なんだよね。中身はともあれ対外的に認められてる「価値」が異常に高いんかなあ、期待もすごいされているし。
しかも面白いのが、外が沸き立てば沸き立つほど、中にいる京都人たちは醒めていくというところがあることなんだよね。僕が京都の大学に行こう! って決めたのは景観論争というお家騒動を兎にも角にも見てみたい! って思ったからだったんだけど、いざ来てみるとかなりみんな醒めていて、東京の方で流れている本やテレビの情報ってのがいかに「東京の眼」っていうアテにならないもので書かれてるかを知りましたよ。とにかくね、京都人の当時の反応の多くは、「しゃーないですわ」ってのが多かったと思うよ。仏教会もその頃にはおとなしくなってて通常通りに拝観できるようになってたし(*2)。あれから8年近く経って京都ホテルも京都駅も全てできてしまった今、ますますこの「しゃーないですわ」度は強まる一方ですよ。
プライドが高いから、みんなが騒いでくれないと腹が立つ。でも、プライドが高いから、みんなが騒ぐとイヤになる。最後はもうどーでもえーでー好きにしーやーみたいな感じで突然放棄して、結局あの時あんなに騒いだのは一体なんだったの? って感じになる。そして、いつの間にか京都にとけ込んでいく。これって受け止める器の大きさ・・・ってことなんかな。よく言えば「ちょっとやそっとじゃ変らへん」という迫力も感じるし、悪く言えば「まあ出来てしもうたんやし」仕方がないっていうやる気のなさを感じたりもする。他人任せっていうか固執しないっていうか・・・ゆとりがあるんかな。
だからね、鴨川のシラク芸術橋は洛外にまで反響を及ぼすような大きなうねりにはならなかったから、京都がきちんとノー! って言ったようなフウに見えるわけで、もしアレが大騒ぎになっていったらたぶんまた途中で「誰かが決めてくれはる」ってことになったと思うよ。大体あの橋の反対運動の先頭に立っていたのはキーンさんでしょ。キーンさんいうたら僕らの大学で一時造園を教えてくれてたヨーロッパの人・・・国名忘れた・・・でさ、元を質せば京都どころか日本の外の人ですからね。

アツ:なる程ね、さすが本業、詳しいね。っていうかリーダー、丸くなったと思ったのは単に気のせいだったみたい。やっぱり噛んで来た。
でもさあ、そんなこんな言ったって、やっぱ住人なんてそんなもんなんじゃない? っていうか人間なんてさ。それこそ生活のダイナミズムだし、結局そう言うもんでしょう。文句言ってても京都駅利用しないと新幹線乗れないわけだし。
京都をより「京都」たらしめているのは京都の外のひと、或いは内部にいる一部のひとのコンプレックスと憧れなのかもね。ホレ、京都には学生や文化人多いし。皆別の土地にちゃんと故郷とか現住所とかがあるから、好き勝手にあーだこーだ言えると。何か思いっきし私たちのことですねえ。

リーダー:まーそれを言っちゃあそーゆーことだよ。結局は関係ないからね、自分らのセンチメンタルを放言して押しつけることが存分に可能なわけよね。これって外の人間だから思うのかも知れないけど、また京都っていうまち自体がそれを望んでいるようだし。またそのセンチメンタルにこたえることができるだけの歴史の町並みだとか生活だとかの資産があるよね。こんなに語れる街はないよ、もう。語ったら寒いまちばっかだもんね、もう。逆にいつまでセンチメンタルでいくんだ? って聞きたくなることも多かったりしてさ。
まーそれで、京都にはあーだこーだって語るのが仕事とでもいうべき文化人やら学生やらのインテリ連中がたくさんおるわけで、そうなったら京都の生粋人はどこへ行ったの?って感じだけどね。いやほんまどこ行ったんだ?

アツ:家でプロ野球見てはる。今日も巨人が勝ちます。てのはいいとして、京都ってやっぱ昔から、それこそ戦国時代ぐらいからずっと、よそ者に干渉され続けてきたわけじゃない。やれ上洛だとかさ。んでそんな状況下でずーっと、京都の人たちは「京都」のコケンを必死になって守ろうとしてきたと。だから外部からどうこう言われることなんてある意味慣れっこなんじゃないかな。
っていうか、どうやら外部からの干渉を期待しているフシがある。待ち受けて、まんまと網にかかってやってきたそれらの横槍に対する反発のパワーを発奮材料にして、「京都」の秩序を再確認してるって言うか。仮に外部からの圧力によって、京都の人たちも実はやせ我慢していた事がちっと便利になったとしても、それはそれで儲けもんかな、ぐらいに。とりあえず文句だけは言ってみたりして。
ちょっと穿ち過ぎかなあ。いや、でもホラ、リーダーの嫌いないわゆる「京都人」のタイプって、そんなの多いじゃん。やんわり返しながら執拗に責め続けるっつーか。決して自分の損にはしないっつーかさ。

リーダー:そーなんよね。言いたいことあるんならはよ言え! って感じの人多いもん。人を褒め上げながら落とすというか、あんま人の話聞かないっていうか、自分の話しかしないっていうか。京都人はO型体質なんやろかね。まーそれはともかく、ずっと京都に籠もってる人と話をしてたらほんま身がもたんね。なんぼキレてもキレきれない。
関西人自体がそうかも知れないけど、他人への干渉もかなり激しいしね。
「余計なお世話かも知れへんけど、リーダーって■■なとこはええと思うわぁ、せやけど●●は全然あかんやんなぁ」
早いとこ言うたらいいのにね、「リーダーはあかん」って。
アツは結構京都人の友達多かったと思うけど、そういうのなかった?

アツ:不思議なことに女友達は殆ど地方出身者。京女は一人か二人くらいしかいない。そのかわり男の子は殆ど京都人。洛中の子も何人かいるけど、別に普段はコレといって「京都人」だなーこいつって思ったことはないかなあ。でもふとした時にプライドが割と高いかも。将来は立派な京都のおっちゃんになりそうな人もいる。あと甘えたがりね。あっこれは別に京都人に限ったことじゃねえか。オホホ。
若い人にはあんまりいないんだけど、タクシー運転手のおっさんに田舎者扱いされたことはありましたよ。こっち来たてでね、いたく傷ついたのを覚えてるよ。それ以来行き先を告げるときは極力地元民を装ってた。インチキ関西弁を駆使して。今考えると馬鹿みたいだけど。タクシー運転手だって地方出身者多いのにねえ。
まあ私たち地方出身者からすれば、京都って所は憧れの町ですからね。でも東京に対するような卑屈さはない。素直に、「京都っていいなあ!」って思えるし、公言できる。

リーダー:東京に卑屈になるのは君がすっかり関西の人間になってってことよ。もう福島には帰れないね、あなたは。・・・でもアツは猛烈巨人ファンでしょ、そのへんはいいの?
まーそれはおいといて、東京と京都は全然違う憧れのまなざしを注がれるまちだと思うのね。東京はなんか別の国でも見るかのような憧れで、いわば「異文化」のモノや人に対する憧れを集めてるわけ。ほんで京都はもうちょっと分かりやすい、ゆうたら「日本」的世界を覗くようなセンチメンタルに近い憧れで、場所や時間の魅力に対する憧れを集めている・・・みたいなね。
どっちにしても、完全に別れるところだろうね、東京派か京都派かってのは。僕は渋谷の人波を歩くだけで憂鬱になりそうな人ですし、第一巨人なんてキライですからね、東京派なんて信じられませんよ。

アツ:アハハ~ンだ、京都には結構巨人ファンが多いんですよーだ。関西=京都って図式はちょっと違うんだもんねー。プーン。っていうかジャイアンツ優勝おめでとう!
でもね、私は絶対に「関西人」にはなれないし、なろうとは思いませんね。だからって東京の方が好きって訳じゃないよ。もちろん場所も人も京都が好き。でもそれはあくまで「よそ者」としての「好き」なのね。なんつーか、愛と恋とは違うじゃない? 私は、京都に恋し続けていたいわけよ。今までも、これからも。そう在りたいと思ってる。
っつーかさあ、関西の東京に対するコンプレックスも度が過ぎるとむかつく! まあこれが出るころにはとっくに日本シリーズで勝利してるだろうけどさあ、昨夜、まさに昨夜ですよ! 今世紀最後のミラクルが日本中の巨人ファンを熱く熱く震えさせたのよ。あの劇的なリーグ優勝(*3)! ところがどうよ、今朝のこっちのスポーツ新聞。マジ酷い扱い。関西人心狭すぎ! そりゃあシドニー女子マラソンの金メダルは凄いことだし、まあこうなるだろうって予想はしてたけどさ。何かここまで来て関西の意地とか何とかそんな事言ってるのって、ほんっとケツの穴小せえよなあ。まあ何でも許せますけどね、今は。ボエ~。
前にも書いたけどね、京都と巨人は似てるのさ。オレンジ色の夕焼けが似合う町。歴史と伝統、期待されてるところ、たまに期待外れなところ、政治的なところ、プライドとそれ相応の実力、それ故に妬まれるところ、外部からのプレッシャー、でも強いところ! だから好き。それでいいじゃん!
おっ、ジャビット君!(走り去る)

リーダー:おいおいどこ行くねん! 銀座パレード? またええとこで逃げやがって、いつもそうじゃねえか!
しかし昨日の君の祝勝酩酊の君の電話はなかなかのもんやったね。もうほとんどオヤジ状態! 何はともあれ優勝おめでとう。
まあそれはともかく、自分も京都は好きだけど、関西人なんてもんになりたいって思ったことは一度もないね。僕もやっぱよそ者として、京都のお客さんとして、京都を楽しみ続けれたらって思う。楽しませてほしいしね、これからも。
あと喜びに水を差す関西人の東京コンプレックスはしゃーないでしょう、もう。あれは性分、それこそ生きる糧な部分でもあるわけでさ。まあでも「地域」ってのをこれだけ意識している地域ってのはもう関西が最後かなあって気がするから、許していこうよ。新聞の偏りとかメディアの偏りとか言うんだったら東京のメディアの方がよっぽど酷いしね。ただ阪神王国では巨人報道ではとてつもなく酷い仕打ちがなされるというわけで。でも今回のは高橋尚子にぜんぶやられてちょっと野球好きとしては腹が立った。
何はともあれ、京都はよそ者に好き放題いろんなこと言わせんのが得意なまちってことやね。やっぱ強いわ。強すぎるわ。そら惚れるわな。
まーでも金任せの補強はしないけどね、アツオさん!
・・・ってアツオさんホントに消えた? またビール? おいもう目を覚ませ!

アツ:(オレンジ色に染まったライトスタンドより)えー? 呼んだー?
金任せの補強? 何言ってんのそれは企業努力ってもんでしょうに。日刊スポーツで落合博満も言ってるぜ! 金を惜しまないのがプロの心意気よ! 京都だって同じ、勝っても負けてもいずれ官軍なんだからさ、どうせやるなら強気なほうが気持ちいい。ファンとして、そう在って欲しい。
じゃあまた来シーズンに! ほらほらリーダーも、夕日に向って両手を上げて! 行くぜv2!
(2000/8/1~9/26)

(*1)確かシラク大統領が来日した時、桝本京都市長に姉妹都市としてセーヌ川にかかる芸術橋を鴨川にもかけてはどうかと言われ、何の思想もない市長はウィと答えて先斗町から祇園にかけて歩行者専用橋をかけることになった。しかし、結局反対運動がまきおこって白紙撤回となった。
(*2)京都ホテルの建設が明らかになった94年頃、京都の名刹で構成する京都仏教会は「京都ホテル系施設に宿泊の方は拝観禁止」というややこしいことをしていた。その前には古都税とかの導入で全面拝観停止といったこともあった。
(*3)2000年9月24日、対中日戦、於東京ドーム。0-4で迎えた9回裏、一死満塁から江藤が満塁HRで同点、続く二岡がライトスタンドへ決勝打。誰も予想しえなかった劇的なサヨナラ勝ちで巨人が4年ぶり29度目のリーグ優勝を決めた。

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上海列車事故の記憶(1994)

その一週間前、私は高知学芸中を卒業した。その卒業式で、校長の佐野先生は学芸創立30周年の記念として、今高校の修学旅行団が中国に行っておりますと話をしていた。佐野校長は朝礼だとか集会がある度に平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」という言葉から話を始め、最後は中国の悠久たる大地がどうのこうのとか、蘇州のどこそこはこうだとかで話を終える、とにかく中国好きな人だった。その日はまた話が異様に長く、かなりの人が眠りへと誘われていた。学芸は私立の中高一貫教育校であり、ついでに予備校まで作ってしまうような、いわゆる進学校の類いに入るものである。また、殊更にスポーツが強いとか東大に何十人も合格する訳でも無い、高知県外の人なら誰も知らないような平凡な、そして平和な進学校でしかなかった。

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卒業式から一週間後、夕飯も終えた七時過ぎ、ニュース速報が入った。飛行機でもまた墜ちたかなと思いつつそれを見ると、高知県の私立高校の修学旅行団を乗せた列車が上海郊外にて前から来た列車と正面衝突した模様とのテロップが出ていた。県内の高校で中国に修学旅行団を出しているのは明徳義塾と学芸だけで、随分前に明徳が中国に出発という記事が出ていた事を覚えていた事と、卒業式の校長の話からもそれが学芸である事はすぐに理解できた。地元テレビ局に勤めている父はすぐに会社に確認の電話を入れ始め、私もラジオを点けて情報の入るのを待った。暫くして、学校名は高知学芸高校との速報が流れた。親戚からもまだ高校には入ってなかったよなという確認の電話が鳴り始め、友達との電話ではまあ大した事は無いだろうという話になった。
情報はそれ以来、途切れてしまった。しかし、その間にもテレビ局は続々と学芸の校舎を映し始めていた。あの校舎に局の配線が何本と走り、あの教室に旅行団の生徒たちの親が集まる姿が映し出される。少しずつ自分の学校が突如置かれた状況が理解できるようになってきた。少なくとも学芸は大事故に巻き込まれたようだ。11時のニュースからは事故の全貌が明らかになりはじめた。現場は単線の信号所、中国では鉄道事故が最近多発していたこと、そして死者がでた模様だと。しかし新華社からの情報はまばらで、二名とか十何名とか全く状況が読めない。旅行団参加者の名簿が発表されたりするうち、108名の生存者がホテルで飯を食べている映像が入り、2名の死者の名前が明らかになる。事故現場の映像も流された。傍観者としてでしか居られない私の目に映るのは、まず死者は2名で済むようなものでは無いということと、生存の生徒たちの親とまだ不明の生徒の親たちの表情の差異であった。
翌朝、母が私を起こしに来るなり、「川添先生が、亡くなったみたいよ」と言った。川添先生は剣道で名を馳せた人であった。体は大きく、校内で歩いてる時はいつもハワイ土産っぽい柄の短パンをはいていた。剣道部の顧問であり、私が中一の時仮入部はしたもののすぐやめようとした際、随分と叱られた。しかし、校内でばったり会う時には口癖のように「元気でやりゆうかえ」とにこにこしながら聞かれた。その川添先生が死んだという。校内にはもう一人川添姓の先生が居るし、まだ解らないと言い聞かせたが、やはりあの川添先生であった。もはや、事故は大した事ない等と言っていられるような状況では無くなっていたのだ。
父が学芸の生徒名簿を貸してくれ、といった。何故だろうか、私はその時貸そうとしなかった。貸せるか、とすら思ったように記憶している。私は泣いて抵抗していた。父は局における旅行団参加者の確認作業のために名簿を貸してくれ、と言っている。確かに父にそれを貸した所で私が損をするとか、何かに使うようなあても無い。しかし、貸したくなかった。あの朝の食卓の情景は、未だ忘れられない。外は暗く、室内の電気が煌々としていた様に思う。テレビは学芸の風景と親たちの憔悴しきった顔、事故現場を流し続ける。今までに経験したことも無い動揺と無気力感が私の体を支配していた。父の名簿への固執は、父の義務の為の作業に思えてならなかった。それへの反発と、この動揺を停めて欲しい気持ちで、私は貸せなかったように今思う。結局貸したかどうかは、覚えていない。
昼過ぎスーパーに飯を買いに行くと、号外が出ていた。その頃には死者は二十七名にまで増えていた。その中で知り合いの人は川添先生一人で、先輩で知っている人はいなかった。その晩だったか、生存の生徒が高知空港に帰って来た。校長、生徒代表、JTB職員による会見が空港ですぐさま行われた。まず始めにそれぞれの名前を言って下さい、と記者の一人が言い、校長の次に生徒代表が名前を言った。その途端、記者が「もっと大きな声で言って下さい!」と怒鳴った。一体何を考えているのだろうか。自分たちを何様だと思っているのだろうか。この日、同じ様な感じで生徒を迎える親たちと記者たちの間で幾つかのもめごとがあったという。俺たちが伝えてやっているんだ、といった風の傲慢な記者たちの態度には疑問を持たざるを得ない。その取材対象である人の感情や心理を全く無視して取材を行った所で、一体どうして真実を伝えることが出来ようか。視聴者の受けを気にし、特ダネを追い求める余りマスコミが忘れ去ったものは大きい。
そして27日、二十七人の遺体が高知空港へと着いた。何百人もの人が空港に仮設された安置所に並ぶ棺に手を合わせた。ひときわ大きな棺は川添先生である。
29日、私はかねてより予定していた島根の祖父母の家に向かった。行くか行くまいか、ずっと迷っていたが、このまま高知にいて事故のニュース漬けになっていては気が狂いそうだった。ただひたすら頭の中を上海とか3月24日とか二十七名等といった言葉が駆け巡り、他の思考が居る場も無かったのだ。島根に行って、少し高知から、学芸から離れたかった。島根では、祖母と鳥取砂丘に行った。祖父からは戦争や会社時代に行った中国の話を聞いた。楽ではあったが、どうしても空しさは消えない。何をやっても、何処へ行っても、離れないのだ。何処へ行っても雑誌に、テレビに学芸という字が踊っている。何処へ行っても忘れることが出来ないのだ。
4月8日、私は学芸高校に入学した。別に入学と言っても、単に先生と教室が変わるだけの話で、何の感動も無い。違うのはテレビカメラに囲まれ、佐野校長の長い中国話が事故のことばかりになった事だった。そして昨年度の皆勤、精勤の生徒の名前が発表された。その中には亡くなった人の名前が幾つもあり、親たちの席からはすすり泣きの声が漏れた。それはとても入学式の風景と言えるものでは無かった。私はF組に入ったのだが、オリエンテーションで担任が元々このクラスの担任予定は川添先生だったという。もう何から何まで列車事故が染み付いている。
5月29日、県と学校による合同慰霊式が行われた。二十七の遺影が並び、学芸の校章が大きな花輪となり、天皇からの花までもが両脇に置かれていた。一人一人の亡くなった生徒への親からの言葉を読んでいたアナウンサーがその中途に泣き出した。大きな県民体育館全体が重い空気で充満していた。
6月7日、美術の時間中に資料を図書館で探していた時、突然臨時放送が入った。校長が静かな口調で悲しいことを伝えねばなりません、と言った。ずっと重体であった生徒が亡くなったという。上海とか中国という言葉に無意識の状態においてもその人は泣いて首を振ったという。事故で足を失いながらも、体調は快方に向かっていたというだけに心が痛む。一緒にいた友人と黙祷をした。 事故に遭った学年の教室はいつまでも席の後ろが空いていた。教室の脇には遺影が花とともに飾られ、新しくメモリアルルームという部屋もつくられた。そこには旅行の途中の集合写真や千羽鶴が置かれ、いつでも開放されている。学校の敷地の一隅には慰霊碑が建てられた。
事故から六年、記憶はどんどん薄れてゆく。忘れてはいけない、忘れてはいけないと毎日一度はいつのまにかあの事故の、あの日の情景を思い出している。それは全く無意識のうちに、ふっと気が付いたら頭の中を流れているという感じだ。しかし、人間の脳というものは都合良く出来たもので、少しづつ何かを忘れていっている気がする。こうして文章にしてみると、それが本当によく分かる。3月24日の速報の瞬間から、どんどん記憶が希薄になっていくのだ。
今も4遺族が学芸と裁判で係争中である。学芸側が旅行行程の下見をしていなかった事や、事故後の遺族に対する誠意の欠如など、金銭でなく心の問題を争点に、高知地裁で口頭弁論を行っている。まだ、事故は終わっていないのだ。
デジタルの時計をふと見たら、何故か3・2・4の配列に出くわす事が多い。ただ他の瞬間のそれを覚えていないだけなのだろうか。3月24日が近くなるにつれてあの事故の事ばかりが気になってしようがない。そして、3月24日になると何も考えられなくなる。事故のことばかりが頭を駆け巡る。そして、必ず黙祷する。24日を過ぎると、ほっとする。そして、そこからまた記憶が薄れてゆく。忘れたくない、忘れたくもない。でも、忘れてしまう。ホントに都合のいい、どうでもいいような事ばかり入れて大事な事を忘れる頭である。でも、やっぱりこれからもこれを繰り返すに違いない。そうこうしているうちに、今年も24日が過ぎてしまった。
◆九四年秋、高知地裁で上海列車事故の判決が下された。学芸高校側の下見の不十分を厳しく批判したうえで、遺族側(途中一遺族が訴訟取り下げ)の損害賠償請求を「学校側の事故の予見は不可能だった」として棄却した。遺族側は控訴を見送り、裁判は終了した。
Camera Talk第5号(1994.6)所収
このテキストは、1992年頃に原稿用紙に殴り書きしてあったものを、94年に当時大学で発行していた「camera talk」に掲載したものです。

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病室の祖母には会えない理由(1999)

「長生きするばあやったら早う死にたい」
杖なんて使いたくない、そこらのおばあちゃんみたいに腰を曲げてまで生きたくない、白髪なんて絶対見せたくない。とにかく恰好をつける祖母だった。足腰は確かに弱っていたが、それでもどうみても若い、着物が本当に似合うかっこいい祖母だった。
そんな祖母が倒れたのが2年前。今、祖母は海の見える病室で、しずかに暮らしている。あの日から祖母は言葉を失った。ふくよかだったはずの祖母はいつしか白髪になり、すっかり痩せてしまった。やや固くなった手は、ぎゅっと握ると軽く握り返してくる。

病室を訪れても、ただただつらい。会えば会うほど、昔の祖母がどこか遠くへいってしまうようで、だから数ヶ月に一度しか自分は病室を訪れない。行く度にまたすぐ来るからねとは祖母には言う。最後に祖母に会ったのが春のことだから、もう半年も会わないでいる。
母方の島根の祖母は、八年前に癌で亡くなった。病室の祖母は日に日に力を失っていくのが目にみえて、やがて自分では起きあがれなくなった。そんな感じの祖母と病室で話をしていたら、発作がはじまった。見ていれなくて、何も言えずに病室をあとにした。変わり果てゆく祖母の姿。その夜、祖母は死んだ。
死は、唐突であれ予測されたものであれ、それまでの記憶を掻き乱す。死によって記憶は死の瞬間よりそこにとどまっていく。もしくは、死に臨む姿を見ることでかつての記憶をひとつひとつ潰してゆく。
本当なら、できるだけそばにいてあげるべきなんだと思う。返事がなくても話をしたり、ただ手を握ったりしているだけでもいいんだと思う。
でも、自分は日曜市でばったり会って写真を撮ったり、祖母の部屋でお茶をたててもらったりしたあの頃のままでいたい。きっと祖母もそうだと勝手に思いこんで、いけないままでいる。
祖母に昔自分が祖母に宛てて出した手紙が出てきたと伝えると、泣き出してしまった。なんで言ってしまったのかわからなかった。
それから、もう半年以上祖母には会っていない。最近、祖母は元気だそうだ。
Idletalk第6号(1999.11)所収
この後、2001年に祖母は亡くなりました。結局、亡骸になるまで、会う事はできませんでした。
このテキストは、カメラトーク友の会から引用したものです。

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未だ見ぬ収穫の日、適切な距離、虫の克服(1999)

園芸は愛に始まり愛に終わる。しかし、その愛が足りないのか、愛の注ぎ方が中途半端なのか。なんぼ収穫の時期や開花の時期がこようとダメなものはダメなのだ。
今を遡ること一年前の春、とある友人に請われてアトリエの庭掃除と庭づくりを共同でやることになった。それで意気揚々と土から種、手袋から草引き鎌、はては石灰に至るまでを買い込んで30平米はあろう庭を隅々まで友人と掘り返し、種を蒔き、そして苗を植え込んだ。

それからは成長が気になって毎日のように庭に通い続ける。芽が続々と息吹く。雑草は発見次第根引き、成長が悪ければ肥料をやり、成長の度合いを写真に収め・・・。この上ない愛情を庭の草花たちに注いだつもりだ。至福の時間は休憩時間の茶とタバコ。心地よい風を浴びながら、もういつの間にか園芸家12ヶ月の気分。
やがて、梅雨。冷房のないアトリエは牢獄と化し、至福の時間はどこかへ逝った。木造築30年のアトリエはゴキちゃんたちの巣になった。草花たちは膨らみに膨らんだ妄想に比べると控えめにしか伸びず、庭はやがて一面の雑草に覆われた。
過剰な愛は続かない。些細なことで突然終わる。たかが梅雨、たかがゴキブリ。しかしそんなたかがが庭から足を遠ざける。
自分はいつもそうだ。4年前の幸せな春は確か枝豆を育てようと張り切っていた。そして夏。大量発生した羽虫のためにあれだけ夢見た枝豆ご飯にありつくことはできなかった。緑の仕事をしているのに、草花の名前を覚えられない。第一育てきれたことすらない。こんなんでいいのかと自問自答する。他の園芸家たちをみていると、彼らは本当に心根から草花を愛している。自分は種を蒔くことはできても、それを育ててゆく術を知らない。過剰に愛を注ぎすぎて枯らしていく。
彼らはいつだって庭に一歩距離を置く。自分はその距離の置き方が分からない。いつだってはまってしまう。そして、大体の場合虫という天敵に抗しきることができずに撤退し、育てきれなかった悔辱の思いだけが傷跡となって残る。
いつになったら自分は収穫の日を迎えることができるのだろうか。結局、虫を倒せということか? 誰か、教えてくれ。
Idlealk第5号(1999.4)所収

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ニワカの世界(2001)

フリーペーパーというのは病なのだ。勝手に出して、勝手に置いて、勝手に誰かが読んでいる。だから、一度それに手を染めた者は、多くが何度も何度も手を変え品を変えて出し続ける(このペーパーだって私が係わったものとしては5つめだ)。

こんなペーパーづくりに限らず、最近はMacやらWinが普及したこともあって「ニワカ」デザイナーやアーティストが跳梁跋扈している。つくることがまるで解禁されたかのように、多くの人々がものづくりに勤しむ時代になってしまったのだ。
無論、自分も極めてニワカの者なのだが、それにしても、である。果たして芸大の意味は今こんな時代にあるのか?と10年前にも思ったがますます思わざるを得なくなる。そもそも学校なんてものは何も教えてくれない浪費の館だが、それにしてもそれでは今なんでこうも誰もがつくって売って何とかなっているのか、心の底から摩訶不思議だ。
おそらく、こういうことになった一因には、情報がネットの海を自由に飛び交う時代になって、国境も何もかもの「境界」がなくなった時代になって、誰もが可能性を感じることができるような時代、それまで秘匿されていた心の底を自由に表現することが許される時代になったからだ。
それはそれで素晴らしい時代、面白い時代にはなったんだと思う。それに、ニワカの人々のつくるあーとは、美術手帖に載っているいるような小難しいアートと違って、言葉なんていらない、どことなく力のある作品が多いのも事実だ。
でも、その一方で思うことは、広がりを見せつつも全体の層は遙かに薄くなりつつあるのでは? ということ。ニワカあーとの多くがどこかで見たことがある、何かに似ている。何も響かない。
情報の海では、情報は自由に選択できる。その海が広ければ広いほど、その海を見渡すことはできない。また、見渡さない自由だってあるだろう。だが、ニワカアーティストは、そんな海があることを知らないのかも知れない。
美大にいた頃、友達とよく論争になったことがある。
「私は、私のオリジナルを守るために、あえて他を知らない」
そのオリジナルは、あくまで狭い世界でのオリジナルだ。「オリジナル」なんてものはもうほとんど存在しない。でも、海のほんの一部しか知らないがために自分が「オリジナル」だと信じることができる。ニワカアーティストの多くが陥っているのは、ちょうどこの部分だ。
ニワカはニワカ。そこから一歩踏み出さなければ、ただのニワカ。狭い海にいきる生物同志、狭い世界で食物連鎖をし続ける。ただ、この世界は居心地がいい。だから、私も含めて、多くのニワカが生き続けている。
CHIRP 1号(2001.8)所収