ART HAPPEN in 土佐山田
市内を後にして、次は土佐山田。おいらもかかわりそうで結局はかかわらずじまいにおわりましたが、[ART HAPPEN in土佐山田]です。会場は土佐山田町立美術館。基本的にはファインアート専門の美術館といった印象の美術館なのですが、今回はgraffitiのシノッチがプロデューサーということもあってバリバリの現代美術です。
展示室に入ると、石井さんの妖怪系をはじめ作品がまばらにずらり。奥の方へ行くと佐藤篤さんの映像ブースなどが。中央には巨大な作品がぶらさがってます。なかなか迫力の空間ですな。
石井さんのは、最近ますますフォルムがひとつ一つ精緻になってきて、なんかもうそろそろ動き出しそうな感じです。顔に布がかけられているけど、これがまじで怖い。この布を取りたくない、いや取らないでいいんだけど(笑)

佐藤さんの映像も、かっこいかった。しばらく誰もいない暗い部屋の中で見ていたのですが、反復と連鎖の映像にいつの間にか脳みそが変になってきました。そしてはじめは眠かったんだけど、いつのまにかぐーっと画面の側にGがかかってくるような感じ。。。。(テクノサービスさんの映像は面白そうだったけど、佐藤映像で頭がやられていたので、また今度見に来た時に見ることにしやした)
んで、入ってしばらく見ていると、おそらく地元の方でしょう、「意味がようわからん〜」と唸っていました。おそらくキャプションも特にないという展示だったため、困っている様子。ただ、考えることを放棄するわけではなく、どのようにこれらの作品を解釈したら良いのか分からないという感じ。ただ「気持ちいいね」「かわいいね」でもいいんだと思うんですけどね、難しいですよね、そこは。「美術史」的に絵を「解釈」することが多くの人にとっては脅迫概念としてありますから。
音楽は、その日の気分や楽曲によって「気持ちのいいもの」であったり、ふと「15年前のある日の彼女との出来事」を思い出すものであったり、「現在のファシズム」に思いを巡らせるものになったり、何も感じないものになったりする。要は、音楽はその「解釈」や「感動」がきわめて自然かつ無意識になされるもののような気がするんです。つまり、音楽は「難しくない」というか(むろんジョン・ケージとかは難しかったりするけど/笑)。

翻って現代美術は、なかなかそうもいってない。モネの睡蓮を見れば「気持ちがいい」とか思っても、柳幸典の「ヒノマルイルミネーション(高知県立美術館蔵)」や「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム」を見てもピンときてくれなかったりする。柳さんの作品ほど分かりやすいものはないはずなんだけど、それを何かが阻害している。そうでなければ、わかりやすすぎて意味もないラッセンあたりがあんなにバカ売れするはずもない。
で、おいらとしては、ですが・・・だとすれば、もう「一押し」をして、その阻害要因を排除するのもミュージアムやギャラリー、アートNPOの一つの役割でもあるように思うわけですよ。
今回の場合、ワークシートを用意して、作品の簡単な説明や、もしそれをしないなら「感じるきっかけ」となる情報提供をした方が良いのかなという感じがしました。一枚一枚一点一点の面白さをもっともっと理解させるための装置があっても良いのかなと。そこから「解釈」してもらってもいいし、ただ「感じて」もらってもいい。感じないなら感じないでいい。せめて、もう「一押し」の材料をおばちゃんに渡したい。。。
また、今回のようなこと現代美術に関わるアートの場合には、市村さんや石井さんがやっているようなワークショップ形式がひとつの例であるように、もう少しアートが「アートなんて非日常なものアルヨ理解できないアルネ」になってしまっている社会に対して積極的なアプローチを仕掛けることは必要なことと思えました。
まあ作品を創る側にたったとき、理解されなくてもいう考え方もできるし、理解できないということが、実は一番の理解であったりするといったパラドックスが成立することだって往々にしてあります。でも、少なくともおいらは、何か作品を創るとき「わからん」で片付けられたくない「何か」を伝えたいからこそ何かの作品を創るのであり、ぱっとみて「わからん」と片付けられてしまうのはなんだか寂しい。もちろん、感覚の問題として「絶対にわからん」ものもあるし、「わからん」ようにつくることもある。
・・・おいらは、もともとは京都のヴォイスギャラリーや岡山の自由工場とかでボチボチ写真をやるみたいな、写真メインの人間だったんだけど、近年沢マン展(02年)や世界最大のフリーペーパーを作成展示した「紙様紙業紙頼み」展(02年)、高知遺産展(04-05年)といった、およそきちんとものづくりしてるアーティストからしたら鼻毛もんの社会系インスタレーションに寄ってしまい、少なくとも理解を絶対にしてもらわんとかなわんで、ということばかりしてるからこそ思うのかもしれません。
たとえばこんなおばちゃんの「アートが理解できない(しようとしていない)」問題、石井さんとかどう考えてるんかな。。。
まあようはおもろければいいんです、おもろければ。なにか思う事があればそれでいいんですよ、はい。そう思いますよ。でも、「理解せないかん」という脅迫概念がある限り、「おもろい」と思う事すらもいけないとなってしまったらもったいないのではないかと。ただそれだけ。
いずれにしても、この日本では「アート」や「文化」がとても安っぽく使われてますからね。よくわからない絵をまちなかに飾っただけで、はたまたヌーディな彫刻を置いただけで「アートなまち、文化なまち」になったと行政マンが喜んでいる事例はあちこちにあります。いや、それもまあひとつのアートだけど、もっとそんな表層的な「なんとなく、文化(田中康夫かっての)」をやるんじゃなくて、アートを杓子定規に見るんじゃなくて、もっと「楽しむココロ」を育てるようなことしてくれと。そんなこと思ったりします。そう思うと、「仁淀川天然ミュージアム」が単年度事業だったというのは惜しいですな。珍しく行政主体にしてはセンスがあったんですが(笑)
土佐山田路地観察プロジェクト

いやー疲れた。佐藤さんの映像みてたら脳がウニウニしてきて腰が痛くなってきました。お次は隣の展示室でやってる「路地観察プロジェクト」へ。これは、私たちの高知遺産よりも深くまちに切り込む形で、土佐山田の「路地」という要素に着目をして、路地になにが起きているか、また路地をこれからどう使うべきか、ということを考えて行こうとしているプロジェクトです。
なかなかおもろい。さすが建築系大学生のプロジェクトらしく、プレゼンへの異常なまでのこだわりが光ってますな。なるほど路地や街角の装置も、またこういう違った見方があるのかと。また土佐山田という狭いエリアにこだわってやっていることもあって、なかなかひとつひとつに深みがある。たとえば「ケンパ路地」とかでは朝と夜の路地の写真があって、千鳥足の大人も子どもケンパ路地・・・みたいな(うーうまく書けない)追い方をしているわけです。
また、全部は見なかったけど「路地の遊び方」みたいなのをまとめたビデヲは、くだらないのもあったけど純粋におもろい。高知遺産では「次のプロジェクト」に回しちゃった部分なんですが、こういう処方箋の提示というのは面白いですね、やっぱり。
まあ最終的にじゃあこのプロジェクトをどうしていきたいのか、というのはいまひとつ見えなくて、そこがやや消化不良だったのは否めません(しかもスタッフさんがいるのかなと思って楽しみに行ったのですが、誰もいなくて残念)。でも、「高知遺産」に足りない部分も当然たくさんあって、なかなか勉強になったのでした。
ちなみに帰ろうと美術館の階段を降りていると、偶然そこにベロシティの武田さんと坂本さんが。お久しぶりでございますだ。んで、先日のコメントにもありましたが、ベロタクシーの展示は事故のため突如中止に。。。残念だけど、けががなくてなにより、なのでした。
(絵金蔵のライブにつづく)