画像:毎日新聞社

▲画像引用元:毎日新聞社

その一週間前、私は高知学芸中を卒業した。その卒業式で、校長の佐野先生は学芸創立30周年の記念として、今高校の修学旅行団が中国に行っておりますと話をしていた。佐野校長は朝礼だとか集会がある度に平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」という言葉から話を始め、最後は中国の悠久たる大地がどうのこうのとか、蘇州のどこそこはこうだとかで話を終える、とにかく中国好きな人だった。その日はまた話が異様に長く、かなりの人が眠りへと誘われていた。学芸は私立の中高一貫教育校であり、ついでに予備校まで作ってしまうような、いわゆる進学校の類いに入るものである。また、殊更にスポーツが強いとか東大に何十人も合格する訳でも無い、高知県外の人なら誰も知らないような平凡な、そして平和な進学校でしかなかった。

卒業式から一週間後、夕飯も終えた七時過ぎ、ニュース速報が入った。飛行機でもまた墜ちたかなと思いつつそれを見ると、高知県の私立高校の修学旅行団を乗せた列車が上海郊外にて前から来た列車と正面衝突した模様とのテロップが出ていた。県内の高校で中国に修学旅行団を出しているのは明徳義塾と学芸だけで、随分前に明徳が中国に出発という記事が出ていた事を覚えていた事と、卒業式の校長の話からもそれが学芸である事はすぐに理解できた。地元テレビ局に勤めている父はすぐに会社に確認の電話を入れ始め、私もラジオを点けて情報の入るのを待った。暫くして、学校名は高知学芸高校との速報が流れた。親戚からもまだ高校には入ってなかったよなという確認の電話が鳴り始め、友達との電話ではまあ大した事は無いだろうという話になった。

情報はそれ以来、途切れてしまった。しかし、その間にもテレビ局は続々と学芸の校舎を映し始めていた。あの校舎に局の配線が何本と走り、あの教室に旅行団の生徒たちの親が集まる姿が映し出される。少しずつ自分の学校が突如置かれた状況が理解できるようになってきた。少なくとも学芸は大事故に巻き込まれたようだ。11時のニュースからは事故の全貌が明らかになりはじめた。現場は単線の信号所、中国では鉄道事故が最近多発していたこと、そして死者がでた模様だと。しかし新華社からの情報はまばらで、二名とか十何名とか全く状況が読めない。旅行団参加者の名簿が発表されたりするうち、108名の生存者がホテルで飯を食べている映像が入り、2名の死者の名前が明らかになる。事故現場の映像も流された。傍観者としてでしか居られない私の目に映るのは、まず死者は2名で済むようなものでは無いということと、生存の生徒たちの親とまだ不明の生徒の親たちの表情の差異であった。
翌朝、母が私を起こしに来るなり、「川添先生が、亡くなったみたいよ」と言った。川添先生は剣道で名を馳せた人であった。体は大きく、校内で歩いてる時はいつもハワイ土産っぽい柄の短パンをはいていた。剣道部の顧問であり、私が中一の時仮入部はしたもののすぐやめようとした際、随分と叱られた。しかし、校内でばったり会う時には口癖のように「元気でやりゆうかえ」とにこにこしながら聞かれた。その川添先生が死んだという。校内にはもう一人川添姓の先生が居るし、まだ解らないと言い聞かせたが、やはりあの川添先生であった。もはや、事故は大した事ない等と言っていられるような状況では無くなっていたのだ。

父が学芸の生徒名簿を貸してくれ、といった。何故だろうか、私はその時貸そうとしなかった。貸せるか、とすら思ったように記憶している。私は泣いて抵抗していた。父は局における旅行団参加者の確認作業のために名簿を貸してくれ、と言っている。確かに父にそれを貸した所で私が損をするとか、何かに使うようなあても無い。しかし、貸したくなかった。あの朝の食卓の情景は、未だ忘れられない。外は暗く、室内の電気が煌々としていた様に思う。テレビは学芸の風景と親たちの憔悴しきった顔、事故現場を流し続ける。今までに経験したことも無い動揺と無気力感が私の体を支配していた。父の名簿への固執は、父の義務の為の作業に思えてならなかった。それへの反発と、この動揺を停めて欲しい気持ちで、私は貸せなかったように今思う。結局貸したかどうかは、覚えていない。
昼過ぎスーパーに飯を買いに行くと、号外が出ていた。その頃には死者は二十七名にまで増えていた。その中で知り合いの人は川添先生一人で、先輩で知っている人はいなかった。その晩だったか、生存の生徒が高知空港に帰って来た。校長、生徒代表、JTB職員による会見が空港ですぐさま行われた。まず始めにそれぞれの名前を言って下さい、と記者の一人が言い、校長の次に生徒代表が名前を言った。その途端、記者が「もっと大きな声で言って下さい!」と怒鳴った。一体何を考えているのだろうか。自分たちを何様だと思っているのだろうか。この日、同じ様な感じで生徒を迎える親たちと記者たちの間で幾つかのもめごとがあったという。俺たちが伝えてやっているんだ、といった風の傲慢な記者たちの態度には疑問を持たざるを得ない。その取材対象である人の感情や心理を全く無視して取材を行った所で、一体どうして真実を伝えることが出来ようか。視聴者の受けを気にし、特ダネを追い求める余りマスコミが忘れ去ったものは大きい。

そして27日、二十七人の遺体が高知空港へと着いた。何百人もの人が空港に仮設された安置所に並ぶ棺に手を合わせた。ひときわ大きな棺は川添先生である。
29日、私はかねてより予定していた島根の祖父母の家に向かった。行くか行くまいか、ずっと迷っていたが、このまま高知にいて事故のニュース漬けになっていては気が狂いそうだった。ただひたすら頭の中を上海とか3月24日とか二十七名等といった言葉が駆け巡り、他の思考が居る場も無かったのだ。島根に行って、少し高知から、学芸から離れたかった。島根では、祖母と鳥取砂丘に行った。祖父からは戦争や会社時代に行った中国の話を聞いた。楽ではあったが、どうしても空しさは消えない。何をやっても、何処へ行っても、離れないのだ。何処へ行っても雑誌に、テレビに学芸という字が踊っている。何処へ行っても忘れることが出来ないのだ。
4月8日、私は学芸高校に入学した。別に入学と言っても、単に先生と教室が変わるだけの話で、何の感動も無い。違うのはテレビカメラに囲まれ、佐野校長の長い中国話が事故のことばかりになった事だった。そして昨年度の皆勤、精勤の生徒の名前が発表された。その中には亡くなった人の名前が幾つもあり、親たちの席からはすすり泣きの声が漏れた。それはとても入学式の風景と言えるものでは無かった。私はF組に入ったのだが、オリエンテーションで担任が元々このクラスの担任予定は川添先生だったという。もう何から何まで列車事故が染み付いている。
5月29日、県と学校による合同慰霊式が行われた。二十七の遺影が並び、学芸の校章が大きな花輪となり、天皇からの花までもが両脇に置かれていた。一人一人の亡くなった生徒への親からの言葉を読んでいたアナウンサーがその中途に泣き出した。大きな県民体育館全体が重い空気で充満していた。

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6月7日、美術の時間中に資料を図書館で探していた時、突然臨時放送が入った。校長が静かな口調で悲しいことを伝えねばなりません、と言った。ずっと重体であった生徒が亡くなったという。上海とか中国という言葉に無意識の状態においてもその人は泣いて首を振ったという。事故で足を失いながらも、体調は快方に向かっていたというだけに心が痛む。一緒にいた友人と黙祷をした。 事故に遭った学年の教室はいつまでも席の後ろが空いていた。教室の脇には遺影が花とともに飾られ、新しくメモリアルルームという部屋もつくられた。そこには旅行の途中の集合写真や千羽鶴が置かれ、いつでも開放されている。学校の敷地の一隅には慰霊碑が建てられた。
事故から六年、記憶はどんどん薄れてゆく。忘れてはいけない、忘れてはいけないと毎日一度はいつのまにかあの事故の、あの日の情景を思い出している。それは全く無意識のうちに、ふっと気が付いたら頭の中を流れているという感じだ。しかし、人間の脳というものは都合良く出来たもので、少しづつ何かを忘れていっている気がする。こうして文章にしてみると、それが本当によく分かる。3月24日の速報の瞬間から、どんどん記憶が希薄になっていくのだ。
今も4遺族が学芸と裁判で係争中である。学芸側が旅行行程の下見をしていなかった事や、事故後の遺族に対する誠意の欠如など、金銭でなく心の問題を争点に、高知地裁で口頭弁論を行っている。まだ、事故は終わっていないのだ。
デジタルの時計をふと見たら、何故か3・2・4の配列に出くわす事が多い。ただ他の瞬間のそれを覚えていないだけなのだろうか。3月24日が近くなるにつれてあの事故の事ばかりが気になってしようがない。そして、3月24日になると何も考えられなくなる。事故のことばかりが頭を駆け巡る。そして、必ず黙祷する。24日を過ぎると、ほっとする。そして、そこからまた記憶が薄れてゆく。忘れたくない、忘れたくもない。でも、忘れてしまう。ホントに都合のいい、どうでもいいような事ばかり入れて大事な事を忘れる頭である。でも、やっぱりこれからもこれを繰り返すに違いない。そうこうしているうちに、今年も24日が過ぎてしまった。
◆九四年秋、高知地裁で上海列車事故の判決が下された。学芸高校側の下見の不十分を厳しく批判したうえで、遺族側(途中一遺族が訴訟取り下げ)の損害賠償請求を「学校側の事故の予見は不可能だった」として棄却した。遺族側は控訴を見送り、裁判は終了した。

Camera Talk第5号(1994.6)所収
このテキストは、1992年頃に原稿用紙に殴り書きしてあったものを、94年に当時大学で発行していた「camera talk」に掲載したものです。