伊野の土佐和紙工芸村で、のべ5日間(参加したのは4日間)の土佐和紙の紙漉研修に参加した。
まあ研修とはいってもやや非公開的なもので、一昨年やった紙の博物館での「使える和紙展」以来なんだかんだとお世話になってる紙漉の磯崎さんや田村さんに直々に手ほどきをいただけるもので、本当にありがたすぎる。
一日目
今回自分たちが漉く分の和紙は、TOSAWASHI PRODUCTSや竹村活版室の商品としても使う。
なので、初めてだった去年よりも漉く量はずいぶん多くて、三椏5kg、楮のチリトリ2kg、楮のチリトリなし2kgを用意してもらった。それぞれ初期加工は磯崎さんの方でしてもらっていたので、実際に自分たちがやるのは薬品などでそれぞれの原料を煮込むところから。
煮込んだ楮や三椏はそれぞれ丸ごと大きな桶に放り込み、流水で30分くらい流すのだが、楮はある程度手荒く扱っても大丈夫なのに三椏はあんまりやると細かい繊維が流れてしまうとか、材料毎に気遣いするところが違っていて面白い(大変)。
午後は楮のチリトリ作業。今年の楮は吾北から仕入れたものだそうだが、皮を剥ぎ取る「へぐり」が丁寧だったらしく、チリトリもそれほどには大変ではない。 まあ今年は県立美術館のイベント関連で別グループの人たちとも一緒だったので、その方たちがたくさんやってくれたというのも大きいんだけど。
夕方前には、三椏をビーターにかける。ビーターは、流れるプールのような形の機械で、ここに三椏ならそのまま、楮なら「タンタン」という皮を叩く機械又は人力で叩いてほぐした繊維を投げ入れると、何周かするうちに仕込まれた刃で繊維がほぐれ、紙漉しやすい程度になるというもの。もとは洋紙の世界で使われていたもので、昔の和紙ならタンタンをしたらそれで紙漉の桶に入れ、棒などでかき混ぜる「ざぐり」をしてから漉いていたそうな。
ビーターでぐるぐるまわるうち、団子状だった繊維はどんどんほぐれていく。そして、このあたりからほぐれた繊維が服や靴にかかると、乾燥するとそこに和紙の塊ができるようになる。和紙がさっきまで乾燥していた楮や三椏なのだということをなんとなく認識する瞬間だ。
ビーターにかけ終わると、今度は「スクリーン」という機械にかける。これもプール状のステンレスの桶なのだが、底に0.1mmくらいの細いスリットが何十本も付いている。ここに先ほどビーターにかけてほぐれた原料を入れて電源を入れるとダンダンダンと激しく振動し、スリットから細かい繊維だけが通過して落ちる。
この工程は今年全くはじめての経験で、まあ実際甘~く見ていたのだが、思いのほか大変だった。というのも、5kgの原料を通すにはそこそこ回数が必要ということと、投入したらそのまんまスイスイと三椏が流れていく訳ではなくて、木のヘラのようなものでスリットを強く撫でつけ続けないと流れてくれないのだ。さらに、ダンダンダンと激しく振動する中でその撫でつけをしないといけないので、ビチャビチャと濡れるわ、ちょっと高いところにある機械なのでビーターから下ろした原料を投入するにはバケツに小分けにしていちいちウンショとしないとダメだわで、なんだかんだと全身を使う。
ましてや慣れてないわそもそも普段運動してないわ塩梅も当然わからないわで、たぶん3人掛かりで1時間くらいかけてやっとこさ終わったような感じだった。ちなみに小柄のウチのスタッフの山中氏は顔じゅうビショビショで、服やエプロンにもあちこちに和紙の繊維がつく始末。おいらも初日は靴で行っていたので、足下に落ちた三椏が靴紐の合間に入ったりしてしまったりする。
まあビーターもスクリーンも、どれもこれも「機械」とはいってもほとんど人力なりいつでも人の目が必要な原始的なもので、ちょっと人間が楽になる(とはいえかなりの差があると思う)程度のもの、ということらしい。タンタンだけはかなり差がありそうだけど。
ここらへんは、去年の研修記録を兼ねて土佐和紙プロダクツのホームページでまとめてある。
んで、二日目~四日目。
昨日思っていたより早く原料処理が進んだということで、昼前から早速漉き始める。まずは三椏。小桶で5-6杯を漉き舟に入れて、漉き舟全体をかき混ぜる「ざぐり」をする。それからトロロアオイを叩いて漉したノリを入れて、ざらに棒でかきまぜる。
この棒でかきまぜるのを「こぶり」というのだが、これもまた塩梅があって、ボートのオールを持つような感じで棒を持ち、手前に引く時だけ強く「ザブッ」と鳴るように混ぜる。なんとなーくできるんだけど、磯崎さんに言わせると「なんか変」とのこと。たぶん4日のあいだ何回もこぶったけど、どうにもなんか変のまんまだったようだ(ちなみに他の人たちは「もっと変」だったような)。
漉き舟は普段工芸村のお客さんが葉書を漉いたりする用の小さなもので、本職の紙漉さんからするとたぶん相当小さい。一回両手を広げても余るような漉き舟で流し漉きをやらせてもらった時は、桁一杯に紙料が入った時の重さにビックリした。これを本職は一日に何枚も漉く。
今回おいらたちが漉いたのは、今後の商品活用もにらみ名刺やA3程度の和紙がほとんどだった。漉き舟も幅90cmくらいの小さなもの。桁も持ち手のところは体の幅くらしかないから、当然そんな重いものではない。が、それでも一日じゅう漉き続けていると最終的には全身が痛くて、帰ると超疲れて仕方がなかった。職人の世界はやっぱり体力と集中力がないと到底無理だ。そしてなにより探求心と。
紙漉の工程は、2~4日目の間、常時2桶で3-4人(おいら、活版室、スタッフ山中、吉岡氏のうち。4日目は東京からスーベニアプロジェクトの小池田夫妻にも到着してすぐに労働を強要)で漉きまくった。仕上がったのは三椏と楮チリトリで名刺を千枚ぐらい、金封などで使う用の薄めの楮の和紙を数百枚、その他葉書や封筒、ミニカードなどなど。なかなかいい紙ができたので、近々商品にも使っていく段取りだ。
和紙の研修も今年で2回目。全く何が起きるのか分からなかった去年よりも、全貌が分かっている分楽しみつつ、また実際に自分たちで漉いた紙を売るということもあってそれなりに真剣に漉いた。まあ本職からすると甘い紙だろうけど、なんとなく、ほんの少しだけ紙漉さんの気持ちが分かったような気がしないでもない。
そしてまた、いつも「高い高い」と言われ続けてなかなか売り込みが難しい手漉き和紙を、これからどうやってほんの少しでも普及させることができるのか、そのための明示的なヒントというのはなかなかまだ見つからないのであった。これだけの工程があったら高いのは当たり前。されど素人目には機械漉きとの違いは分かりにくいという現実。
従来通り、建物内装や美術修復、美術作品用としての路線は当然堅持しつつ、その180度反対側にある「暮らしの中へ」的裾野を広げていかないことには、紙漉さんはもちろんのこと、楮や三椏の栽培農家、その加工工程(楮蒸しや皮のへぐり)を担う人々への対価を支払うことは(高齢化の先にある、山村部の急速な人口収縮後に特に)ますます難しくなっていくだろう。
農業とか物産と同じで「顔が見える」戦法もありそうだけど、これはこれでそもそも限界を感じるし、またスターを生み出す可能性はあっても広がりは薄くなる。他の産地との連携、全くの異分野との連携。土佐の手漉き和紙全体の裾野をどうやって広げるのか、まだまだよく分からない。