うーん。絶賛大炎上しているときぐらいしか拝読したことないんだけど、有名ブロガーの方が高知に移住されるそうな。
で、何人かの高知人が書いてたけど、なぜだかちょいとモヤモヤするんですわな。
高知の良さって
最近ずーっと思ってたこと。そもそも「高知に移住する」ってなんなんだろうと。
高知県は、ちょっと前まで「自分の県に自信がなさすぎ」で、移住政策も観光政策もうまくいっていなかった。それがここ数年はあの時代はウソだったんかと思うくらいイケイケ。逆になんか自信持ち過ぎっていうか、そこまで何を誇って売り出そうとしているんだ大丈夫かてなくらいな状況になっている。悪い意味ではなく。
この動きは震災以後の東京民の「精神疲労」にリンクしているような。震災以後、東京はもうダメだーということで東京からの移住者がずいぶんと増えてきた。関西や他の地方からの移住者はほとんどまわりでは見かけなくて、ほとんどが東京とその近郊。ウチになぜか移住相談にくる人も、ほぼ100%東京。まあ高知みたいな場所にとっちゃとてもよろしいことだしやっと高知の良さが分かられるようになってきたんだなあとホクホクするはするんだけど、一方でここらへんからなんかモヤモヤするものも出てきたわけで。
高知の何がいいんだろと。
いや、そもそも高知は超いいと自分も思ってるんだけど、どうして急にこうなったんだと。
高知の良さってなにか。
まあ飯がうまい、人がいい、自然いっぱい、歴史もあって、、、そんなところが基本にはなるわけだけど、まあこれはどこの土地に行ったとしても同じこと。青森だろうが静岡だろうが鳥取だろうが熊本だろうが、まあ同じことだ。
じゃあどこが高知はよそと違うのか。
思うのは、どう転んでも僻地ゆえに雇用吸収力のある企業も少なく
→従って自営業者が多くなるという土地柄で
→それなりの競争力が問われることになるので
→たとえば美味しい小さな飲食店や品揃えのいいお店が人口の割に多い
という流れがある点が、どうにもポイントに思える。
自営業者が多いから、そうしたところの人脈から仕事を拾うことのできるデザインやイラスト、写真といった業種も田舎の割には頭数が多いように思えるし、いいお店が多いから(取り扱ってくれるお店があるので)クラフトやアートなどの作家業の人々も、やっぱり案外多いような気がする。
高知ほど工場や大企業に恵まれない土地も珍しいと思うけど、でっかい工場や大企業がないからこそみんながなんとなく食える、そんなところが案外よその地方では考えにくい「良いとこ」にはなっているような気がする。少なくとも現状では。
だから・・・自分も生きていられる。そしてそもそもの、やっぱり酒と飯がうまい。これ最高にして原則。
高知の新鮮さ
で、移住者やその希望者には、こうした高知の状況は新鮮に見える人には見えるんじゃないかと思うのだ。
「統計上」どん底の地方でありながら、なんというかどん底感が高知を見てもあんまり見えない。それぞれの人とのつながりや、それぞれの技術やネタできちんとそれなりにお金を作って、暑くなったら仕事ほっぽって川に遊びに行って、それで酒と美味しいご飯を日々食べて(→貯金できない)いる訳で。人が少ないから人と自然につながって、お互いにサービスしあうような仕事の枠組みができあがっている。
移住希望者は、基本心の底ではやっぱり「東京ってすげーよ」と思ってるはず。だけど、そのすげーってのが結局は統計や数字の大きさなどなどでしかないということに、高知に来るとなんとなく気づいちゃうんじゃないだろうか。その邂逅感、おいらはもう高知に慣れすぎてしまってわからなくなったけど、逆に東京で話題になるのがとどのつまり「数」に纏わる話だったりすることを考えると、田舎と対峙する東京の価値というのはもはやそこにしか無くなっているのかも知れないと思えるわけだ。まあ相手が悪かったのかも知れないけど。
数で高知と東京を比較したところで、当然なんにもならない。高知が数の大小で勝てるのは面積くらいなもんだ。東京の不戦勝だ。そんな話を田舎から来た人間にすんなっつーの。
そして、たとえば「自分で食う」という、東京や大阪ではそこそこの度胸が必要なことが、高知では比較的容易く実現するような気がする。長い目で見て食い続けられるかどうかは別として、働くということの充足感がおそらく東京や大阪あたりよりもなんとなく素早く得られそうな感じがする。諸経費が全体的には低い分、やっぱり東京大阪よりははるかにはじめやすいし、つながりがあればそこから広がる速度はそれなりに速い(つまり、言い方を変えればつながりがないとかなりしんどい)。
問題は市場のボリュームが少ないということだけど、大金持ちを目指しているわけでもないから少なくとも現段階ではそれほどの問題にはなっていない。
そして、逆にいえば普通のサラリーマンになりたい人にはかなり厳しい土地柄かもっていうことだ。そもそも職がないわけで。
そんなこんなで、全部じゃないにしても、こんな感じの高知の変わったところが「高知家」プロモーションあたりから東京民にもバレはじめて、ここんとこ超部分的に受けはじめてるんかなと思う(自由民権の終焉以後の100年間にわたり「地味県」の大関格だった高知の歴史上、超部分的とはいえこんな状況自体が稀なことだw)。まあカツオが旨すぎるってのもあると思うけど。
人の勝手だけど、そうもいかないと思うのね。
だけども、ここでモヤモヤが出てくる。
ネイティブな自分は、当然ながら人生のおわりまでここで暮らして行こうと思っているわけで、いまさらこんな居心地いい場所からどっかに移って暮らそうという考えはもはや毛の一本も出てこない。特に独立して仕事をはじめてからは、もうよそへ移るという選択肢はなくなった。高知のために何ができるかってことを考えるだけだ。
だけど、移住者ってどうなんだろうなと当然思う。たぶん、結構高い割合でそこまでの気持ちはないだろう。いつかは東京に戻るかも知れないし、高知に飽きたらまた別のところでもいいじゃんてな感じのところも正直あるだろうなと。むろんそれはそれで1つの生き方だし人の勝手だ。
しかし、モヤモヤするのは、高知ってものがそれぞれのセルフプロデュース上で物語をつくる「ひとつのパーツ」扱いになるのだとすれば、それは長い目で見れば高知にとって不幸かも知れないとも思うところだ。
上で書いた「高知の良さ」は確かに人口吸引力にはなりはじめていると思うけど、それでは吸引された人々は「高知の風土や文化」にどこまで根付いた解答を出せるのか。そこにこだわりすぎる必要はないかも知れないけど、そこにある程度こだわらないと北関東のようなアイデンティティを喪失気味の曖昧空間になっちゃいそうな気もする。どこの地方でやってもよさげな解答(仕事)を出すのか、出さないのか。ただ「出す」ということにだけカタルシスを感じちゃったりして終わられるのだったら、やっぱりそれは迷惑だなーと思うのだ。
高知がそんなタイプの人々の「部品取り車」みたいになっていけばいくほど、後に残るものは何なのかよく分からないことになる。なんつか、国境のボーダレス化で移民が増えて国ってなんだってことになりはじめているEUとなんとなく被る。
ただ、これはそのまま高知民にも返ってくる言葉でもあるわけで。。。高知の風土や文化、つまりアイデンティティ的なところに、どれだけ応えているのか、応えていこうと考えているのか、っていう。おいらの生業であるデザイン業でも、梅原真さんや迫田司さんのような人々はそこにとことんこだわっている。まあそれでやりすぎ感のあるときもあるなと思うけど、自分らも含めたその下のモノコトを作ろうとする世代はどうなんだと、自問自答せざるをえない。
そしてもうひとつのモヤモヤは、東京では遊牧民的な生き方もある種ひとつの生き方かも知れないけど、それが農耕民族的な田舎に合うのかどうかってことだ。腰を据えてない相手を信用しようとしないのは、良くも悪くも田舎の必定。田舎はやっぱりどー転んでも面倒なところなわけで、そこに違う生き方を挟むことで起きる問題に目を瞑り続けるわけにもいかないだろうとも思うわけで、ここらへんも「移住」がなんとなくブームになっていることの違和感につながっているような気がする。
要は、「いつかいなくなるんだったら最初っからいなきゃいいのに」っていうことだ。
そんなモヤモヤが、311後の移住者急増時からずっとあって、今回の移住噺を知ってますます大きくなった次第。