泊まりたくなる宿がある。
小さな町の、小さなお宿。
飾り気のない、たぶんちょっとサービスが行き届かないような、おばちゃんがやっているような宿。
越知の街中に、そんな小さな宿があった。かつて仁淀川筋の水都として栄えた越知は、国道沿いを普通に走っていても面白くない。この町の面白いところは、旧街道沿いにのびる商店街や台地状に広がる住宅地の方なのだ。
この商店街の一角に、しっかりとした造りの田舎旅館、「たにわき」が佇む。
仁淀川流域をさんざん巡っていた頃から、ずっと気になって仕方が無かった宿のひとつで、何度宿の前で車を止めたことか。
高知には、公共が運営している小さな宿が多い。道の駅と同じように、公共が地域振興の名目で始めたような宿だ。たとえばオーベルジュ土佐山は土佐山村が作ったものだし、黒潮本陣は中土佐町の施設だ。高知はもともと宿泊施設が脆弱で、観光政策をいくら充実させても泊まるところがない!という状態が長かったから、公共が宿泊部門に手を出して行くのはある意味仕方のないことであり、必然だった。
だけど、そうした公共の宿に注目が集まるぶん、民間の宿には目がいかない。基本的な目線は、「サービスが悪そう」であり、「メシがまずそう」だ。ホテルもしかりで、高知ではセブンデイズホテル以外のホテルはどうにもサービスが悪そうな印象が拭えない。
でも、遊んでいるうちに夜になり、止むなく泊まった民宿が思いのほか良かったりする経験があるのもまた事実。結局、小さな宿やホテルの情報なんてものはほとんどどこにも流れていなくて、ただ知らないから行かないし、いいという話も聞かないからよくないように思えるという、ただそれだけのことなのだ。
「たにわき」は、その点でいくともっと知られていい宿だ。
街道に向かって翼を広げるように室が飛び出ていて、その真ん中の、ほんの短い石畳の通路を抜けると、すぐに玄関。淡青の色漆喰が出迎える。またここですぐには女将が出てこないところがいい。何度呼んでも出てこないのに、やがて2匹の飼い犬が来客に気付いて騒ぎだし、それで女将が走ってくるような感じ。小さな旅館は、こういう少し抜けた感じがいい。だいいち、フロント的なところがこの宿にはないので、ちょっと面食らう。まるで民宿のような抜け感。なのに旅館の風情。
泊まった日は、自分たち以外には来客がなかった。ちょっと寂しいけれど、いくつかの部屋を覗くと決して部屋は「死んで」いない。ふだんの客の入りを聞くと、先日までは合宿で満室だったとか。越知に泊まるという用事がいったいどれくらいあるというのか、それはよく分からないけれど、結構需要はあるらしい。
泊まった部屋は表から上がってすぐのところ。布団を2−3枚敷けば畳が埋まるような部屋で、窓を開けたら小さな廊下を挟んで中庭が見える。正面からは想像ができないけれど、ロの字型の建屋になっていて、中庭に風呂場がある。翌朝になってみると、中庭には池もあって、ちょうど手直ししているらしくたくさんの鯉がブルーシートでこしらえた池でわんさかと泳いでいた。
建物は、写真の通り古い。せっかく聞いたのにすっかり忘れてしまったけど、たぶん昭和もはじめのころの建物で、しっかり磨き上げられた木の手すり、風が吹く度にピシピシっと小さな音を鳴らす薄いガラス戸が、この宿の長い長い歴史を物語る。
鉄でできた外回廊や中折れして左右両側から上り下りすることのできる階段、一段だけの階段を挟んで上下する廊下など、増築の痕跡も多い。たぶん、水運時代や高度成長期など、いくら泊めても溢れんばかりの客人を迎えた時代に加えた造作なのだろう。
夜食は、宿の一角にある、息子さんがやっているというバーで食べた。翼の片方がモルタルで塗り固められ、ちょっとお洒落な感じになっていて、一見するとピザでも食べれそうな感じだ。
が。扉をくぐると同世代くらいの人々がカラオケやらなんやらで大騒ぎ。それはそれでなんか田舎の街らしくて好印象なんだけど、外のこじゃれた感と中の雰囲気のギャップにたまげる。しかも、何か食べたいと言うと、近くの豚太郎からのお取り寄せ。このギャップに、しばらく笑いが止まらない。越知の小さなバーで美味しい酒でもと期待させておいて、カラオケの大音響に包まれながらラーメンとビールですから。
だけど、なんか妙に楽しい。高知の街からもたまに飲みに歌いに来る人もいるというし、お客がいる限り朝までやっているというし、現実客席は全部埋まっているし。小さな町ほど飲み屋さんは元気なところがあるけれど、まさにこの店はその典型だ。
朝。起きて歯を磨きに外廊下を歩くと、正面に横倉山がみえた。隣の建物がちかごろなくなったらしく、遮るものなく真正面に見える。見慣れた山でも、こうして歯を磨きながら見ると、すっかり知らない町にやってきたような気分になる。
灯台下暗し。身近なところでも旅はできる。身近なところで、こんなに楽しい場所がある。ネットやブログが浸透して情報がただただ垂れ流しに浪費され、そして振り返られることなく消費されていくだけの時代の中に、ふと取り残されたこんな場所。
こんな場所を見つけること、こんな場所を大切にしないと。
谷脇旅館
高知県高岡郡越知町越知甲1612
0889-26-0008