高知遺産の陰のテーマは「団塊の世代」と「団塊ジュニア」の価値観の相克だったりする。
団塊は創造と破壊の世代であり、ジュニアは創造への無関心と利用の世代。
団塊やその上の世代が汗水たらして創造してきたモノコトをジュニアは「与えられて」育ち、団塊がそのモノコトを破壊して創造を繰り返そうとする中で、ジュニアは「与えられた」モノコトの喪失を嘆いている。
団塊が「集う」ことに価値観を見いだし、その中で創造と破壊を繰り返す世代とするならば、ジュニアはより「個人」を重視することに価値観を見いだし、その中で自分の価値観に適合した『創造されたもの』を利活用することに長けた世代といえる。
むろん団塊もジュニアもそれぞれ全ての人々がそうだというわけではないけれど、世代観として見たときに、この傾向があることは否めないんじゃないかと思う。
高知遺産の大きなテーマは「記憶の風景」だ。
これはいま、高知のような小さな地方都市であってもどんどん破壊されていることへの憂慮が出発点なわけだが、参加者の多くが20ー30代であることからも分かるように、実はここに示された「記憶の風景」は、あくまでジュニア世代にとっての「記憶の風景」そのものであったりする。むろんその風景はあらゆる世代も一定は共有している。だけど、その風景への価値観の持ちようは恐らく随分違うに違いない。
高知における「記憶の風景」は、ひとくちには言えないが、その多くは強い開発志向のなかで翻弄され、消えていった。都市の拡大、都市の成長がその開発にとっては大前提であり、そのためならば旧都市の破壊は厭わない。破壊こそ創造。創造は破壊なくしてはありえないとすら言いたげな「地区総とっかえ」がまかり通ってしまった。新橋や品川の再開発ではないが、高知でも規模の小さな「開発」が今頃起きているのだ。
この本でジュニアがまとめた「記憶の風景」は、おそらくこうした開発志向とは真逆にある。都市の縮小、経済の縮小、人口の縮小。この流れの中にジュニアは生きていかなければならない。団塊世代が引退と共に食い尽くしていくであろう「財政」の荒れ野に、数十年後には主役として立っていなければならないジュニアの嘆き。開発という行為それ自体は否定できない。その中で自分たちが利益を得ていることだってままある。いやそれどころか、ジュニアのほとんどは嘆くどころが積極的にその開発の恩恵にあずかる。イオンの巨大SCなんて、その典型例だ。そういう意味では、団塊VSジュニアの構図という風にまとめるのには難があるのかも。
でも、「記憶の風景」に価値を見いだせないということ悲しいことはないと自分は思う。記憶よりも創造や破壊にばかり目を奪われて、常に更新される街のどこに意味があるのか、今はもう分からない。都市のダイナミズムというと、これまでは「更新」であったと思うのだが、その果てに一体何が残ったか。「更新」といいながら地域のアイデンティティを反映できない建物や空間が全国のあちこちに並び、高松と松山の違いが分からない人が増えてしまった。
こんな「記憶の風景」すら消費されるようになっていたのが、こないだ訪れた京都だった。リノベ系の店が立ち並ぶ三条通界隈では、リノベという形で「記憶の風景」を大切にし、その傍らで地域のアイデンティティには根本的な悪い影響(変質)を与える可能性を秘めていた。いや、ここでもアイデンティティの変質自体がいいことなのか悪いことなのか、また考える必要があるのだけど。
果たしてこの街はこの先へどこへいくのか。
団塊の世代は、まだまだゆうにあと20年はこの街を仕切り続ける(普通ならもう引退するんだけど、たぶん団塊はその異常な「ネットワーク」へのこだわりを活かして、NPOをつくって極めて企業的な地域活動に取り組んだりして「下の世代」の活躍の場を狭めるのではないかと思っている)。
たぶん、あと5年もしたらこの街に「高知遺産」は残っていないかもな、と思ったりもして・・・