べっしーのつぶやき」で、べっしーさんが「遺産の本を読んで楽しいと同時に、だんだん、とっても、淋しくなってきた。」というような感じのエントリを書かれていた。


『ウチの仕事は町を変えてしまう仕事だ。むしろ、遺産を潰す側の立場だ。
こんな私が「高知遺産」の大ファンだと言うのは、許されることなんやろうか?
とか考え出したら、すんごいブルーになってくる。』

実は、おいらも建設会社にいまのところ足をおいていている。その会社で、地域計画のコンサルタントをしている。しかも、うちの会社とべっしーさんの会社は取引もあるらしい(笑) そして、どちらかというと、遺産をつぶす側の仕事。というか、【「遺産」という考え方を尊重しすぎると、飯が食えなくなる】という仕事。まあ自分の部署は「遺産」の考え方に則って仕事を十分にしていけるはずなんだけど、たぶんそれでは会社的に経営が成立しない、とみられていそう。
さて、おいらがこの業界で仕事をしたいと思ったのは、東京から高知へ帰ってきた中学校1年生の時にさかのぼる。当時の自分にとって、高知はとにかく「古い、ださい、小さい」だった。
アーケードはほとんどがまだ古くさいものばかりで、商店もどうにも全部古くさく見えた。ファミレスはココスだけ、コンビニはスパーだけ、ファストフードはロッテリアだけ。テレビ局はNHKと民放が2局だけ、高速道路なんてものはどこにもないし、何より大きな道路が少ないからどこへいっても大渋滞。やくざの抗争花盛りの頃で、競輪場で撃ち合いとか事務所に突入とかそんなことぐらいでしかニュースにもならない。
町中を歩いても電信柱や巨大スナックがやたらと目立ち(映画刑事物語4でも登場)、とりあえず子どもの自分にとって魅力なんて物は高知の街になかった。それに、自然で遊ぶという習慣もなかったから、川で泳ぐとかそんなこともできない。とにかく、自分にとって高知はつまらなくて、どうにもならないものだった。
それがなんだか変わったのが、鬱蒼としていた中央公園がリニューアルされた時だった。中途半端な大きさで、緑が少なくて、変な彫刻があるだけの公園になったのを見て、なんか子供心に強い不満を感じたのだ。

なんじゃこらと。ださいなと。

これは、おいらが変えないとだみだと。

子供心に。

幼稚園から小学生に至る東京時代の8年間は、吉祥寺や善福寺のあたりにいた。近所には井の頭公園や善福寺公園があっていつもそこで遊んでいた。こんな味気ない広場じゃあかんと多分思ったんだろう。
それからそのまま大きくなって大学で環境デザインという「よくわからない分野」を学ぶようになった。ここではじめ学んでいたこと、考えていたことは、街をきれいにするということだった。
だけど、そのうちすぐになんかおかしいと思い出した。帰るたびに電線が減り、アーケードがきれいになっていく高知は、帰るたびになんだか活気が失われていくような気がした。きれいに整えられるたびに、なんだかおかしくなっていく。

コンビニも増えた。ファミレスもファストフードも増えた。高速も通じた。
そのかわり、よく行った小さな写真屋さんや雑貨屋さんが消えた。本屋さんがなくなった。お店の人と話をする機会が減って、なんだか「街」が遠くなったような気がした。
そして、崖という崖はコンクリートでガチガチに固められ、川の瀬は砂利で埋められた。中学生の頃アケビをはじめてとった場所も、いつのまにかなくなっていた。
そして、当時やっていたカメラトークという雑誌では、友人と紙上で激論をかわした。ヨーロッパを旅行して帰ってきた友人は、電線まみれの日本、景観にまとまりのない日本をさして、これをヨーロッパのようにきれいにするべしといったようなことを書いた。おいらは、それじゃつまらんと書いた。アジア的な混沌とした風景の魅力に、おいらは惹かれつつあった。京都のように何百年と景観を守り続けている(つもりになっている)街ではそれでもいいかも知れないけれど、もはや「景観」という考え方すらない地方都市で景観を云々すれば、おそらくそこでくりひろげられる景観は、きっと表層的なものでしかないと、なんとなく思っていた。これは、両者平行線で、友人の間でも意見は分かれた。

そこへ阪神大震災が起きた。
三宮も元町も長田も、壊滅したようなものだった。ボランティアで何回か神戸へ行って、その後も何度か神戸へ定期的に行った。「高架下」は一部では高架が崩壊し、行ったことのある店が潰れていた。それからの復興の課程で、神戸にはやけにカラフルで、やけに飛んだデザインの多い震災復興住宅が立ちまくった。大阪の設計事務所に勤めていた頃には、この住宅団地のコンコースの設計を横から見ていたんだけど、なんだか「空々しく」見えた。
長田も、全てが焼け野原の状態の時、見に行った。がれきはもうなくなっていたけど、アーケードやマンションには焼け跡が残り、あちこちに廃墟になった建物が残っていた。都市ってものがこんなに簡単にがれきに戻るという事にむなしさを感じた。
それから数年後に神戸を訪れた。三宮はすっかり元気を取り戻したし、長田も区画整理を済ませてきれいさっぱり新しい町並みになっていた。
だけど、気になったのは全部が新しいからなんだろうか、それとも新建材ばかりでなんとも味気ないからだろうか、もしくはあまりにも単調な町並みだからだろうか、とっても「魅力的」じゃない街がそこにはできていた。三宮は賑やかだけど、全部が灰色に見えて気持ち悪かった。元町の高架下だけは変わっていなかったので安心した。長田は、昔の記憶が蘇らないほどに、以前自分がどこを歩いたのかも分からないくらい、変わっていた。
地震だから、これは仕方がなかったんだと思う。全部が壊れ、燃えたんだから、仕方がない。
だけど、自分が席をおいている建設業って、これと似たようなことをしてるんだと思った。
自分の仕事って、「安心」「安全」「美観」のために、「時間」や「記憶」をぶちこわす仕事なんだと。

とどめは、ある同業他社の設計部長と「新堀川」の話をした時だった。
昔むかしの江戸時代、高知は水路だらけで「水の都」の様相もあったという。がっかり名所のはりまや橋も、当然昔は川があった。大丸の前から中央公園のあたりもお堀が戦後まではあった。ぜーんぶ埋められた。
その中で最後まで残ったのが新堀川。いまや市内でも有数の低次利用土地で、川はややヘドロ化してある意味どうしようもない場所(まあそれもこれも江の口川からの水門をまともに開けていないからなんじゃないかと思うんだけど)になってしまっていたが、石積も結構きれいに残っていて、風情がないわけじゃない。
でも、この川に蓋をして道路を通すんだと。設計部長曰く「蓋をするわけだから川は残る。今でも新堀川の半分は駐車場で蓋をされている状態なのであんまりかわらんやか」と。そして、城下町都市とか歴史都市とかいうのなら、こうした資源も活かすことを考えるべきじゃと申し立てても、「実際に道路は必要とされちゅう。それに、高知の基幹産業となっている建設業が食べていくためにも、こうした事業は必要だよと。必要悪だよ18号君」と。実際、建設業が食えなくなれば、その他の産業への影響も大きい。高知の場合、産業連関表のまんなか?に建設業がくるのは実際間違いない。

でも、それじゃあこの街は「懐は寂しい」のに「モノを作り続け」て借金を増やし続け、いずれ返せなくなって破綻するか、たとえ返せても人が減った時に「いらんもんだらけ」になる。今を生きる知恵(知恵とすらいえない)だけに汲々として、たった10年後のこの街の姿すら、この人たちは考えようとしてないと、思った。
だけど、それでないと、自分も食べていけない・・・と思ったけど、だけど、だけど、なんで「あるもの」で「懐を暖める」ことができないんだろうか。それでは、会社として業界として成立しないということだろうけど、そもそもなにもかもを足し算で考えることに問題があるんじゃないんか、と。
そして最近。高知は南海地震対策花盛り。行政の人も、コンサルの人も、南海地震の津波をどうしのぐかを必死に考えている。そこで言われ始めているのが、「集落移転」だ。
たとえば中土佐町や浦戸、佐賀のような海岸集落では、津波が来たら平地はどこまで行っても津波に洗われる。だったら、まだ30年ある今のうちに高齢者だけでもせめて高台に移転してしまえというわけだ。でも、この町は何十年もかけて大正町市場を育て上げ、小さな町なのにどこへ行っても人の気がある、なんだか賑やかな町としてたくさんのお客さんを招き入れるようになった。漁師町だから、海への親近感も強くて、海辺の防波堤や公園に行けば、いつだって地元のおじいちゃんやおばあちゃんがのんびり海を眺めている。
こんな風景も、津波が来たらどうなることか分からない。いくら堤防を整備したところで、川から遡上してくる津波の引き潮で被害を受けるだろうし、建物自体が今の段階で老朽化しているから、地震がきたらどうなることか分からない。

だから、集落を移転せよと。高台に行けば、安心して暮らせるのだと。何百年と先祖代々暮らし続けてきた古い街を捨てよと、いともあっさりと彼らは云う。
そんなことができるはずがない。
きっと、神戸にすら彼らは行ったことがない。神戸から何も学んでいない。奥尻島の青苗だって、いままた人が暮らしている。どれだけ人が「その場所」に愛着を感じ、そこに暮らしているか、そんなことを考えてすらいない。
だけど、その一方でこれは無視もできない。やがてくる津波で何千人の人の命が救えるか救えないか、その境目にこの議論はある。命と愛着。その引き替え。
ここがとても難しい。だから迷う。分からなくなる。だけど、少なくともその津波は百年に一度しかやってこない。人は、これからも何百年とその地に生き続ける。なにより、何百年と、その地に生き続けてきた。
『ウチの仕事は町を変えてしまう仕事だ。むしろ、遺産を潰す側の立場だ。
こんな私が「高知遺産」の大ファンだと言うのは、許されることなんやろうか?
とか考え出したら、すんごいブルーになってくる。』
この街は、これからどこへ行くのでしょう。おいらまでブルーになってくる。
またいずれ続きを。もう少し考えましょう。