どこでみつけたのかは忘れてしまったが、いまなお住民が暮らす白川郷に関する議論掲示板みたいなところで、「住民が出ていった方が美しい景観が守られる。。なんでまだ住んでんの?汚らしいよ」なんていう意見があって、またそれに同調する意見が多くてびっくりしたことがある。
白川郷では観光客がいきなり家にずかずか入ってきて写真を撮っていったりとする事件が多いというけど、ああこういう気持ちでいる人って結構多いから、ずかずか入っていけるんだなあと妙に納得したものだった。以前白川郷に行った時も、平気で田圃に観光客が入って記念写真を撮ったりしている姿をみて、あまりのふてぶてしさに驚いたりしたことがある。

「観光客エゴ」と「地域エゴ」
「客」なんだから「お金払ってるんだから」「きてやってるんだから」という観光客エゴ(観客エゴ・客エゴ)は、あまり行きすぎるとどこかで何かをおかしくする。むろん、「客」という存在は、多くの場合たとえば入場料とか移動時間といったものを割いてその場にやってきているのであって、支払った額や時間に対するサービスを求める権利(もしくは求めたい気持ちといった方がよいかも)がある。だけど、その権利は主張しすぎれば「エゴ」になる。いくらきれいな風景を見たいからといって人の家に入る権利はないし、地域の文化風俗・いま、そして未来へと続く歴史を破壊する権利はない。
だけど、観光にも関わる今の仕事をしていて思うのは、世の中そんな人ばかりだなあということであったりもする、悲しいことに。また、観光客を受け入れる側にも、こうしたエゴを大切にしようとする意見が以外と多い。まあ、実際にはこの線引きってとっても難しいんだけど。
また、こうした観光客の権利を逆に圧迫しようとすると、「(観光地側の)地域エゴ」として片づけられる。あまりにその地域のありようやそれまでの仕儀、文化にこだわるあまり、観光がサービスであるということを忘れている、といったような指摘だ。せっかくきてくれるんだから、観光客の立場にこそ立った施設づくりや観光まちづくりを進めるべきだ、というわけである。そのためには、ある程度の文化や生活、伝統の犠牲も致し方がないと。
だけど、この場合観光で食おうとして最も大切にするべきものを捨てたがために、その最も大切なものを見たくてやってきた観光客をがっかりさせることにも往々にして繋がっている。わかりやすいところでいえば四万十川なんかがいい例だろう(ちなみに四万十川は、JTBの調査で観光客の期待値が高い一方、リピーター率の低い観光地としての評価がなされていた。同様の観光地としては札幌、白川郷、宮古島、長崎などがある)。
こうした観光客と地域側の受け止め方のずれ。それ自体が生まれることは全くもって仕方がないが、おいらはこれからの時代においては、個人的には後者寄り、すなわち観光客の変なエゴに付き合うことなく、地域の文化や伝統、環境といったものをきちんと守る非常に好意的な意味での「地域エゴ」を押し通す方がいいのではないかと思っている。それでは確かに観光客の短期的な満足度は低いものになるかも知れないし、リピーター率は低くなるのかも知れない。だけど、それで一番大切なものを失うよりはましだ。そうそう、京都の三条通みたいにならないように。。。
絵金蔵はフラストレーションがたまるのか
さて、このいい例が、このブログでも時折登場する赤岡町・絵金蔵と絵金祭りにあるような気がする。この絵金蔵は、それまで町内の個人がめいめいに所蔵していた絵金の「おどろおどろ」な屏風絵23点を収蔵保管している。そして、本物は「蔵の穴」というレンズを通して見せ、絵金祭りの夜を模した暗がりの展示室にレプリカが並んでいる(提灯を持ってこのレプリカを見ることができる)。
開館以来、県外からやってきた人は必ずといっていいほどに連れていく施設なのだが、ほとんどの人たち(絵金は元々は知らない人たち)が絵金の面白さに触れ、「本番の絵金祭りも見たくなった! また今度来ます!」と言って帰っていく。ただ、本物を見れないことにフラストレーションをためる人もいる。ここまで来たんだから、どうせなら本物をみせてほしいと。また、7月中旬に高知にこれない人のことを考えるべきだ、どういうつもりだ何様のつもりだという人もごく希にいる。・・・・むむむ、どうやらそこがこの施設の最大の弱点であり最大の強みのようだ。
たとえばこんなご意見こんなご意見
確かに、本物を守るために本物を見せずにレプリカを見せる行為は、観光客側にフラストレーションを溜める可能性はある。しかし、年間を通して本物を見せるという行為は、年にたったの数日とはいえ野ざらしの展示を長年にわたり続けてきたことや、「個人蔵」という環境で保管されてきたことで相当の劣化が進んでいるという屏風絵本体のストレスを高めることに他ならない。その結果、本番のお祭りで見せれない状態にしてしまったのでは意味がない。蔵に納められた絵金の屏風絵は、今に続く「本来の目的」・・・美術館や博物館の檻の中で見ることに意味があるのではなく、ハレの日に路上や境内に飾られることにこそ意味があるのだ。
その屏風絵をたとえば常設展示にすることは、それだけでも当然劣化をより進行させることにつながるだろう。修復すればよいじゃないかという意見もありそうだけど、個人蔵の作品群ではそれもそう簡単ではないし、修復はできることなら避けることが望ましい。そういう本物志向の強い人に限って、修復されていると「なんだ修復されてんのか」とか言い出したりするし。
また、赤岡の屏風絵は、いずれも暗闇の中で百匁蝋燭のもとで見ることが大前提の構図(蝋燭の光があたるあたりを中心とした構図)であり、彩色技法(ある屏風絵は百匁蝋燭の光でゆらゆらと照らされると、絵のほぼ中央に描かれている血の部分に混ぜられた何かが光り、まるでどろどろと流れる血のように見えはじめるのだという)が使われているという。少なくとも、煌々とした光のもとで赤岡の屏風絵を見ることは間違いといえるし、その迫力はどう工夫したところで本番の4日間を凌ぐことができるようなものではない。
おいらからすれば「7月中旬に高知にこれないひとのことを考える」のはナンセンスで、「毎年7月中旬ならきっと永遠にこの祭りはやっているから、どうか見に来ることを考えてください」といかに伝えるか、そのことの方が大切だ。その点では、絵金蔵はかなりいい線をいっていると思う。
「本物」の価値を理解している(と思われる)絵金蔵
いずれにしても、絵金蔵は、おそらく「本物みせぇ」という批判が出ることも承知で、この大前提をとても大切にしているんじゃないかと思う。本物はそれまでの「個人の家の中」から「蔵の中」に移ったけど、本物を見たければ絵金祭りに合わせて見にきていただく他ない。江戸時代末期なのか明治初期なのかは分からないけど、少なくとも100年以上に渡って続いてきた生きる文化を守ろうという赤岡の姿勢がそこには垣間見える。いわば、赤岡や屏風絵のコンセプトを忠実に守っていこうとしているわけだ。
そして、そのことはどうも「暗くて危険」としょっちゅう言われるらしいが、「蝋燭で屏風絵を見るという行為」を疑似体験してもらう展示室の在り方にまで徹底されている。とにかく、できるだけ「本物」・・・つまり暗闇の中で蝋燭の光で絵を見るということ・・・へのこだわりが半端ではないのだ(そう考えると、色味の再現性が低くなるのは宿命とはいえ、レプリカの出来が決してよいと言えないのは残念)。ちなみに、この展示室が「暗くて危険」なら、絵金祭りの前に行われる宵宮の時の展示は、もっと「暗くて危険」だ。
本物は本物の場所で。レプリカは、本物らしく
このことを書いていてふと思い出すのが、阿波踊りがステージで一年中見れる徳島・眉山の麓にある「阿波踊り会館」。これって「観光」という立場だけで見たらいいのかも知れないけど、夏祭りとしての「文化」という立場から見たらどうなのかなとも思う。やっぱり夏の町中で汗かきながら見るからこそ阿波踊りはいいのであって、クーラーのよく利いたステージで踊っているのを見たところで、果たして一体「阿波踊り」を見たと自慢していいものなのか。少なくともおいらはそんなの見たくない。
本物の場所がまだ生きているのなら、やっぱり本物を本物の場所でみたい。本物を補完するイベントや施設をつくるなら、できる限り本物を意識したものであった方がいい。そのギリギリをせめて模索してほしい。そして、何よりかにより本物を見たいと思わせるものであるべきだ。ステージでやってる阿波踊りをみても、阿波踊りの本当の魅力はおそらく伝わらない。狭い道に列をなしてぎゅうぎゅうに詰まりながら踊りまくるからこそ面白いのであって、横に長いステージで踊っても、なんだかただの盆踊りになってしまう。・・・まあこれもある意味「観光客エゴ」なんだろうけど。
赤岡の屏風絵については、年に数日でも本物に触れんばかりの距離で見ることができるという、まさに屏風絵に「旬」の瞬間がいまなおあるという事実にこそ目を向けるべきなのだ。本物が見たければ、本物が出る日にきたらいい。「本物がみたいのに、レプリカかよ」という人には、自信をもって「7月に来てください」というしかないのだ。絵金蔵は、それができない人のために、せめて疑似体験してもらうことに徹するほかない。展示室も、おいらはもっと暗くていいと思うぐらいだ(せめて足許を照らす床置照明はいりそうだけど)。蔵の展示はなんか暗くて危険な感じだったけど、本番の4日間は一体どんなに危険な感じなんだ??と思わせるぐらいの。
また、こうした観光客エゴに振り回されることなく、こうした赤岡の姿勢や「過去から現在、未来へと続く」文化としての価値、絵金屏風絵の美術史的価値・・・という側面をより強調した研究・情報発信・教育普及に向けた活動を進めていくことも大切なように思える。
おまけ
美術館の常設展示でも、「目当ての作品」は数年に一回しか展示されない。以前おいらが京都にいたとき、高知県立美術館収蔵作品の一番人気・舟越桂の彫刻を見たくて帰ってきたら出ていなくて、受付の人に聞いたら「次は来年の展示になります」と言われてがっくしきて、しかもその時県外からお客さんを連れてきていたので「収蔵庫あけてみせぇ」なんていう傲慢な注文をしてしまった(今考えると最悪です。てんぱってました。ごめんなさいあの時の窓口さん)。このとき学んだのは、目当てのものを見たければ、なんぼ遠くに暮らしていても、たとえ重要なお客さんを連れていっているとしても、めあてのものを見せてくれる時に行かないとだめなのだ・・・なんていう当たり前のこと。美術館の場合は、ダメなら図録でみるしかない。
赤岡と絵金蔵の場合、たったの4日間しか本物は展示されない。でも、残りの361日間、「観光客」のためにもここが絵金の町であることを伝える必要、もしくは伝えたいという思いがあった。また、高齢化が進む町の中で、個人蔵の屏風絵を永続的に保管する体制を整える必要もあり、研究・情報発信を図る体制を整える必要もあったのだろう。
その様々な天秤をかけてできたのが絵金蔵。こう考えると板挟みになるのは宿命なのかも知れないが、「一番大切にしたいこと」をしっかりぶれることなく守ろうとする姿勢は、むしろ学ぶことがたくさんあるような気がする。
・ ・・でも、「蔵の穴」だけは正直ストレスがたまる・・・レンズが邪魔くさく感じるのは自分だけだろうか