▲現在の舟戸

▲住宅立ち退き後の舟戸
草原の中に、小さな鳥居と屋根のない家が点々と。今年の夏、大渡ダムにかつて舟戸とよばれた集落が姿をあらわした。

台風14号が来るちょっと前のこと、渇水気味の仁淀川で写真を撮影しようと車を大渡ダムの方へと走らせていた。まあ早明浦ダムよりははるかにましとはいえ貯水率は40%を切っており、ちょっと危機感が流域では芽生え始めていた。
大渡ダムの少し手前から国道を離れ、対岸の道路をゆく。たぶん10キロ近くはあるであろうクネクネ道の途中ですれ違った車は一台。まあ辺りに集落はほとんどないので仕方がないんだけど、なんか寂しくなってくる。
でも、途中に太郎釜という小さな滝があったり、ひとっこ一人いない小さな沢があったりしたので、そこでもうかなり冷たくなった川水に足をひたしたりと休み休み走っていた。
んで、その途中、ダム湖をかなり上がったところで、対岸に集落の跡がみえてきた。早明浦ダムの湖底から今年久しぶりにあらわれた「ダム反対運動の拠点だった」という旧大川村役場に比べると、棘がないあまりにも詩的な風景。
山手の鳥居、屋根が抜け落ちて壁だけになった家の跡、ところどころ崩れ落ちた道路、おそらくそこだけは昔と変わらない、小さな沢と、それを渡る小さな橋。そして、かつてそこに家があったのであろうあたりには、まさに新緑とでもいいたくなる草原がひろがる。
調べてみると、ここは昔「舟戸」という地区だったそうだ。小さな集落ではあったけど、芝居や相撲なども川縁の広場では行われていたという。まあ山間の典型的な小集落だったわけである。
上の写真で手前にある大きな岩には、かつて半鐘が吊されいたらしい。得月館という旅館もあって、そこからの眺めはとてもきれいだったようだ。この集落が消えたのは、おそらく昭和51年頃。家々が次々に壊され、この集落に住んでいた人々は高知や大阪へとちりぢりになったという。以来30年、この集落は時折湖底から姿をあらわしては消えるのを繰り返している。
もともとこの集落は、木のあるところとないところの境界の高さから察するに、ダム湖の高さからほんの少し「低い」というだけで全面移転になったもののようだ。だから、草原も青々と、のびのびと集落を覆っている。なにより泥を深く被っていないから、はかなくも美しい。
この舟戸にいまアクセスできるのかどうかはよく分からない(おそらく北側からアクセス可能)けど、こんな情景を見ると、仁淀川町の人にいわれた「高知の人は、自分らばっか楽しんでおらんと、もっと水のこともこういう時(渇水時)ばあ考えんと」という言葉が響いてくる。

 舟戸は、仁淀川を前にして三方が絶壁に囲まれ、水田が少しあるへき地であった。山の上から流れ落ちる谷を境に、しも手が鷲之巣、かみ手が橋の字になっている。
明治二十三年国道開通によって、道芝の片岡千代次が谷のしも手に居を定め、鷲之巣大野儀太郎氏が、得月館のち市川旅館の位置に居宅を設け、その中間に宅宮浅吉氏が商店を開いたのが明治四十年、今から七十四年の昔である。由来舟戸は対岸別枝一円の玄関として発達したが、渡し舟の時代は去って、別枝口、秋葉口にその中心を奪われた。
谷奥に宮島様を祭り、北の山手に金比羅宮の社があって、旧暦三月と十月の十日には、太鼓が聞こえた。川手の高い岩に半鐘を吊り、対岸沢渡谷の突き出しを借景として眺めた。
・ ・・村をたちのいても、ここに育った者は旧国道を通って車を止め、変わり果てた荒れ野に立って回想にふけり、高知市に転出したある姉妹は、はるばるここを訪れて水泳を楽しみ、幼児を追想永遠の別れを告げて帰っていった。
(「湖底に消えた仁淀渓谷」より)

▲賑やかだったころの舟戸

▲現在の神社跡。手前の大岩に鐘が吊ってあった