知事がブログ「だいちゃんぜよ」で新堀川について文化や環境の側面から見直すこともありなんではないか、といったような方向性の記事を書かれていた。
この新堀川、高知の街の真ん中にあって、写真のように子供らあが釣りをしたりして遊ぶような川だ。京都でいえば白川や堀川、大阪でいえば道頓堀みたいなもんで、まあとっても身近な川なわけだ。

この川は、高知遺産の企画がスタートした頃、坂本龍馬の坂本家の墓所がある丹中山、高知駅の再開発で風景が変わり始めていた比島と並び、メンバーの間でしばし話題になった川だ。
めちゃくちゃいい風景の川というわけではない。めちゃくちゃきれいというわけでもないし、まあなんというか、ある意味「なんてことのない川」。だけど、町中と宝永町などの城東とをなんとなく分けている『まちの境目」であり、どことなく景観的意味のある川だという認識。そして、かつてこの一帯が物資の集散地であった時代の名残を少しだけとどめる歴史遺産としての価値への認識。少なくともそれはあった。
また、おいらがコンサルタント時代に、同業者のアホな一言にあきれた川でもあった。
高知遺産の葛藤

この新堀川では、上の世代の人々が様々なアプローチで工事への反対の狼煙をあげてきた。はじめやや武闘派的な勢いもあった活動は、最近になってずいぶん柔らかい感じになってきて、新堀川の価値というのも少しずつ認識されてきていたような感じはあった。
そこへこの知事のブログ。いままでこうした工事が必要悪だと平然といっていた土木の人にとってはたまらない発言かも知れない。だけど、いまこの時代にこれ以上太い道路を通し続ける必要があるのか、冷静に考えるべきときなんじゃないか。
まあたぶんこの新堀川に道路ができれば街はますます便利にはなるだろう。だけど、それで失うものはあまりに多い。そのことをきちんと天秤にかける最後のチャンスなんじゃないか。
おいらは、どう考えてもこの道は中止してしかるべきだと思ってる。川に蓋をして道路をつくるだなんて、昭和30年代の発想だ。そんなことに何億も金をつぎ込むくらいなら、路面電車やバス、鉄道、駐車場の連携を考えた公共交通施策にいい加減手を入れるべきだと思うし、コンパクトシティーに向けた政策展開を図るべきだと思う。そして、そうした政策を市民が理解できるような提案もするべきだろう(実はこうした政策に一番無頓着なのが市民なのだ・・・というのを、1月にやった駅広会議で知った)。
ここで新堀川に蓋をするという愚行を止めれるかどうか、それで実はこの先の高知の行く末が見えてしまう、そんな気がする。
だいちゃんぜよ「百年後の価値」