ドラえもんの最終話については、一時“のび太は植物人間で、ドラえもんはその夢の中での人物であった説”が流布され、巷間を騒がせた事があった。私はこの噂を聞き、本当に泣きそうになったものだが、実際には第6巻の「さようなら、ドラえもん」でドラえもんは終わっているのだ。その内容とは、次の通りである。

ドラえもんが未来の都合で帰らなければなくなり、のび太は泣いて止めようとする。しかし、やっぱり帰らなければならない。2人は夜を明かして語り明かす(オバQも同じような終わり方をしている)。その途中、ドラえもんは感極まって泣き出し、家を飛び出していく。そして、それを追うのび太は、空き地の近くで夢遊状態のジャイアンと遭遇し、我に返ったジャイアンにボッコボコにされてしまう。しかし、のび太は諦めない。
「君に負けてしまったら、ドラえもんが安心して帰れないんだ!!」
ジャイアンは「知るか、そんなこと」とまるでドラえもんに何の恩もされていないような事をここで言うが、のび太はジャイアンが逃げるまで抵抗するのだ。そこに、ドラえもんがやって来る。そして、のび太はドラえもんに言う。
「勝ったよ、ぼく。見たろ、ドラえもん。勝ったんだよ。僕一人で。もう安心して帰れるだろ、ドラえもん」。
それがのび太とドラえもんとが交わした最後の言葉だった。ドラえもんはのび太を床に就かせ、朝と共に未来へと帰っていく。もう机の引き出しにタイムマシーンの入り口は無い。のび太はドラえもんに誓う。僕一人で、やってみるよ。のび太は強く、逞しく生きて行く事を誓ったのである。
何度読んでも泣けて来る。しかも、第6巻の末尾にはドラえもんの道具事典も付いており、確かにドラえもんは終わった事を示している。第6巻には感動する話が非常に多い。「赤い靴の女の子」、「のび太のお嫁さん」がそれで、しかも、それらの話は最終話への伏線として、序章として展開されている事が分かりやすい程に分かる。それぞれ、[のび太の昔大好きだった“ノンちゃん”への慕情の終結]、[のび太がジャイ子では無く、静ちゃんと結婚する事になるという、のび太の将来の保証]が表現されているのだ。ここに[強く、逞しく成長したのび太]の具現である最終話が加わる事で、のび太の過去・現在・未来に「お話」としての終止符が打たれ、セワシがドラえもんをのび太の元に送り込んだ目的たる『のび太強化改造計画』が達成されたのだ。
のび太はドラえもんの登場以降、その怠けぶりに拍車がかかるばかりであった。そのままに終わるのではドラえもんに与えられた目的、ひいては存在理由そのものが脅かされてしまうし、何の哲学もない漫画に成り果ててしまう。しかし、この3つのお話によって、ドラえもんはその存在理由と哲学を明解に我々の前に提示し、終わっていった。
・・・そう、このまま終わるべきだったのだ。ドラえもんは藤子不二雄 が没するまで終わるまい。のび太はドラえもんの道具に頼り、自分の力を信ずる事なく終わり、ドラえもんもその存在理由を一切証明する事なく、にである(映画版については、少し事情が違うようだが)。
ドラえもんは第7巻の「帰ってきたドラえもん」であっけなく帰って来る。その内容は、以下の通りである。のび太は強くなっていなかった。ジャイアンとスネ夫に相変わらず苛められ、自閉にすらなってしまいそうな様子である。そんな時、のび太は“何か困った時には、この箱を開けるんだ”というドラえもんの言い残した言葉を思い出す。そこには、ウソ800という道具が入っていた。「君なんか生きていろ!」と言えば、その言われた相手は死んでしまう、という余りに怖い、言葉のアベコベクリーム的道具である。のび太は早速それを利用し、ジャイアンたちに仕返しするが、何か空しい。すると、ふっと思いつき、言う。
「ドラえもんは帰って来ない」
・・・ドラえもんは、未来の都合で帰ってきても良いことになった等と言いながら、再び引き出しから戻って来た。
第6巻の涙は何だったんだろう。以来、43巻にドラえもんは達し、藤子の代表作として今に至っている。だが、こんな安直な方法を再開にあたり執ってしまった事で、ドラえもんは世の子供達にのび太の逆説としての「強く、逞しく」ではなく、「便利な社会、ご都合主義」を啓蒙するだけの漫画に落ちぶれた事は、皮肉以外の何物でも無い。もっとも、ドラえもんにこんな穿った見方をする事なんて、意味がないのだが。

カメラトーク第4号(1993.11)所収
このテキストは、カメラトーク友の会から引用したものです。