おいらの常連銭湯・清水湯さんを舞台に、銭湯勝手に応援中の「湯〜モア新聞」で開店前の姿を取材した。詳しいことは来月あたり発行の新聞で見て頂くとして、本当に大変な商売ということがよくわかった。そして、もっと通いたいと思った。
清掃は特製タワシでひたすら磨く。男3人かかりでも1時間近くかかる重労働だ。しかも一切手を抜かない。ありとあらゆるところをきっちりと磨きあげる。また、普段覗くことのできないボイラー室の見学では、大きなボイラーや濾過マシンの構造を見せてもらった。珪藻土を使ったフィルターをこまめに清掃し、お湯自体も2-3日に一回総入れ替えすることで、塩素もほとんど使わないきれいなお湯をつくってる。
実はここに一番驚いた。最近、県内外のちょっと大きめの温泉やスーパー○湯へ行くと、ちょいアトピーなおいらの皮膚は危険信号を発信する。入った途端に肌の先がピリピリとして、末梢神経に何か悪戯をされたような感覚を覚えるのだ。だけど、清水湯をはじめとする、いわゆる銭湯ではそんな体験をしたことがなかった。こういうことかと納得した。

こういう良心というのは、なかなか人には伝わらない。ついつい大きいところや色々な設備のあるところへ人は惹かれていくし、そういう良心がチラリと見えた瞬間にウザくなっていくときだってある。
機械化が進み、バイトがボタン一つで回せる仕組みに良心はいらない。映画館では映写技師が要らなくなり、アルバイトがボタンひとつでフィルムを架け替えるようになった。毎日淡々と掃除をし、お客さんの様子をみては湯温を変える銭湯よりも、お湯をきっちり消毒して使い回し、チケットすら自販機で買わないといけない温泉施設の方に人は集まるようになった。愛想がないおんちゃんの笑顔を引き出すまで長い道のりが必要な街の店より、どうしても顔を覚えることのできないマニュアルスマイルのコンビニの方に行くのもまた日常。
どれも一見違うことだけど、根底にあるのは同じこと。どれもこれもが軽くなるかわりに、どれもこれもなんだか何かを犠牲にしてる。携わる人の姿が見えなくなり、携わる人からこぼれる愛情も小さくなった。で、それで得するのは、本当はせいぜい企業や金持ちだけでしかなくて、良心を持つ者は真綿でクビを締められ、とってかわったはずのアルバイトは格差社会という言葉の檻に閉じ込められる。そして、ちょいアトピーは安心して入れる風呂が減る、と。
そんなことを思った裏方体験でした。