高知ってすぐに物事を単純化するよなー
最近つとにそー思うのだ。
某かの成功体験がそうさせるのか、たとえば龍馬、アンパンマン、四万十、はりまや橋への異様ともいえる寵愛は、その他の資源を悉くつぶしちゃいそーな一点集中思考だし、とにかく何かが受けだすと途端にそっちに流れて行く。龍馬はそーいう流されるタイプじゃなかっただろーにとか、純信お馬も周囲の動きなんぞ無視して駆け落ちしたタイプだろーに、なんか「流されて」たり一つの動きや人や事象、場所にグイーッと引き寄せられていく。
東西軸構想の商店街PTで配布される資料やパブコメとかを見ていてもその傾向は結構強くて、たとえば「お城への景観を整えたい」となると追手筋のクスノキを切ったらいいとか、城内の邪魔な高木を切ったらいいなんていう意見が平気であったりする。
また、中央公園とかでも浮浪者がたまりつつあるから木をちょっと切ったりしようなんていうのもあるんだけど、周囲のビルから公園を見ると結構「森」みたいに見えていい感じなわけだ。それが本来の行政として浮浪者が生まれる構造を変えるより「居場所」を減らすというだけのために、「森」がただの「林」やそれ以下のものになったりする可能性を孕んでいる。
なんか冷静じゃない。邪魔な木を切ればその逆からも邪魔なものが見えるかも知れない。たったひとつのことに傾注する前にヨソも見たら、いいものがあるかもしれない。その逆の立場や、そうでない立場、それ以外の立場、といった「周辺」への関心がないと、なんかいっぱいもったいないことにつながっていくよーな気がする。